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ピュイ・ダ・ムール

 ああ、食べたい。あれが無性に食べたい。でも作るの面倒くさい……。

 時生は客がいないのをいいことに客席に腰かけ、カウンターテーブルに頬杖を突き悩んでいた。彼が食べたいと思い描いているのは、地球のフランスにある菓子だった。それを作るのは非常に面倒くさいのだ。

 でもなあ。もうパイ生地も折っちゃったし、型も準備しちゃったしなあ。

 時生は心中でそう言うと、仕方がないといった感じで立ち上がり厨房へと向かった。それから調理台の下にある業務用冷蔵庫から、生地が入った綿袋を取り出した。時生は直ぐには立ち上がらず、暫く生地を片手に冷蔵庫をまじまじと見つめた。


「この世界の魔法って本当に便利だよなあ」


 彼はしみじみそう思い独り言を呟いた。

 時生が迷い込んだこの世界には電気が無く、代わりに魔力という不思議なエネルギーが普及している。この業務用冷蔵庫も、カルロから貰った冷気の魔力を宿す魔石を填め込んでいる。地球で店を経営していれば毎月支払う電気代に苦しめられることが多いが、この魔石は一度購入してしまえば壊れるまで半永久的に使える。しかも人工の魔石ならば、庶民でも手が出せる値段で売られているのだ。

 時生はようやく立ち上がると綿袋を木製の調理台の端に置いた。それから近くにある調味料棚に手を伸ばし、小さな壷をとると中に入っている打ち粉を調理台に撒いた。そうして生地を袋から出すとそこに置き、調理台の引き出しから綿棒を取とって伸ばし始めた。彼は生地を約2mmまで伸ばすとピケローラーで穴を開け、包丁で8cm角に切り分けた。

 それを事前に用意してあったタルト型に敷き込み、更に型に合わせて切られた紙をその上に敷いた。それから型をオーブンプレートに全て乗せ、ファジョロ豆を重石として型一杯に入れると高温に温めたオーブンへと放り込んだ。

 その間に彼は鍋に砂糖と水を2対1で入れると強火にかけ、鍋のシロップが沸騰し大きな泡が出始めると火を止めた。それから彼は泡だて器で卵白を静かに混ぜながら、出来上がったシロップをゆっくり少量ずつボールの端から注ぎ、全て注ぎ終えると今度は勢いよく泡立てた。しっかりと角が立つまで泡立て終われば、これがイタリアンメレンゲになる。

 続いて生クリームをイタリアンメレンゲと同じくらいに泡立て、事前に作ったカスタードクリームを木べらで滑らかになるまで戻し、そこにメレンゲ、生クリームの順番に合わせていった。

 これでようやくシブーストクリームが完成した。

 時生は疲労の溜息を一つ漏らしたが、まだまだ完成までの工程は山積みだった。

 それから彼はオーブンを覗くと、そろそろパイ生地が美味しそうに色付いていたのでオーブンから出して重石の豆と紙を取り除いた。次に型を木板に移した。本来はこのままパイが冷めるまで常温で放置しなければならないのだが、今回は早く食べたかったこともあり、時生は良くない事だと分かってはいたが、それをそのまま冷凍庫に放り込んだ。これをやってしまうとパイ生地が湿気てしまうばかりか、庫内の温度が上がって冷凍されていた別のものが解けてしまったりするのだ。もし時生が地球で菓子職人をしていたならば、確実にシェフから怒られたことだろう。

 時生はその状況を思い浮かべると苦笑し、それからパイが冷えるまで時間があるのでシブーストクリームを冷蔵庫にしまった。


「こんにちはトキ。お茶をしに来たのだけれど、何か美味しいお菓子はあるかしら?」


 それから暫く経った頃に一人の女性が入店し、そう時生に声を掛けると席に腰かけた。少し厳しい顔つきの彼女は王太子宮の侍女長だった。彼女は週に1度はこうして甘いものを求め、この店にやって来る。それにしても今日は絶妙なタイミングで来たものだ。


「やあ、いらっしゃい。いいところに来たね、ヨランダさん。ちょうど美味しい菓子を作ってたんだ。どうしても俺が食べたくってね」


 そう言いながら時生は冷凍庫から型を取りだした。指でパイに触れると、もうすっかりと冷えていた。それから彼は、焼かれて脆くなった生地を壊さないよう丁寧に型から外していった。


「まあ、それは良かったわ。どういったお菓子を作っているの?」


「ピュイ・ダ・ムールっていってね。俺のいた世界のフランスっていう国の言葉で、愛の井戸っていう意味の菓子だよ」


 時生はヨランダと会話しながら冷蔵庫からラズベリーに似たランポーネの実で作ったジャムを取り出すと、固まったそれをスプーンで解してからパイの底に塗っていった。


「愛の井戸? 変な名前のお菓子ね」


「その国の菓子では、ましな名前なんだよ。間抜けとか泥にはまった馬とか、言うのも憚られる意味のものもあるからね」


 フランス菓子には、もっと驚くような意味の菓子がかなりある。まともな名前と酷い名前の落差が激しすぎるのだ。


「……まあ、ちょっと下品ね」


「名前だけね。味はみんな驚くほど美味いよ」


 フランス菓子に馴染みのない人はその味が濃く感じ口に合わないと思うが、一度慣れてしまえばこれほど美味い菓子はないと思うようになる。ちなみに時生は後者である。その時生の作る菓子に舌を慣らされたヨランダもそのようになりつつある。


「そうなの。じゃあ楽しみね」


 そうなんだよ。時生はヨランダにそう答えるとジャムを塗り終えたパイにランポーネの実を置き、そうして冷蔵庫に入れていたシブーストクリームを取り出して布製の絞り袋でランポーネの実の上に半球型になるよう絞った。

 全てのパイに絞り終えるとその頭頂部分に砂糖を振った。それから刃が駄目になった包丁を火で熱し、それを砂糖がかかった部分に軽く押しつけた。やがてクリームから白い煙が上がり砂糖が焦げカラメルになると、香ばしい匂いが店中に漂った。その匂いにヨランダは堪らず、待ちきれないわと言葉を漏らした。

 時生はそれに笑みを漏らすと、出来上がったピュイ・ダ・ムールを一つ皿に載せ彼女の前に置いた。それから彼はヨランダがいつも飲むお茶を煎れる為、背後の棚から茶葉が入った壷を手に取った。


「お茶はもうちょっと待って。今から煎れるから」


「ああ、もう待ちきれないわ。だってすごくいい香りがしているんだもの」


 ヨランダはフォーク立てからフォークを取ると、クリームをすくって口に含んだ。ふわっとした軽い食感だが、カスタードと生クリームの濃厚な味が広がり、そこにカラメルの香ばしい匂いが鼻をくすぐった。甘いけれどカラメルの香りのおかげか、ただ甘いだけではない引き締まった味になっていた。


「今までにトキが作ってくれたお菓子とは違った感じ。でも美味しいわ」


「クリームだけ食べたら駄目だよ。下のパイとジャムと一緒に食べてみて。もっと美味しいから」


 ヨランダは頷くと彼の言うとおりにフォークで下のパイまで掬い、大口を開けてそれを食べた。それは普段の彼女ならば、はしたないと恥じらう行為だったが、そんなものも忘れるほどにこのお菓子を気に入ったらしい。ヨランダはその味に唸るとすぐにまた一口、更に一口と食べ進んでいった。

 ヨランダはこのように複雑な味の菓子を食べたことがなかった。さっと溶けていくクリームに、ほろほろと崩れるパイが食感のアクセントとなっている。更に先程は甘いと感じたクリームだが、そこに酸味のあるジャムが加わることでほど良いバランスが保たれている。カラメルとの相性も抜群だ。時折感じるランポーネの実のフレッシュな食感と味も悪くない。


「はい、お待たせ。いつものお茶って、ありゃあ」


 時生がお茶を出す頃には、彼女はすっかりと完食していた。ヨランダはその恥ずかしさに顔を真っ赤にして俯いてしまった。時生はそんな彼女の様子が微笑ましく感じ、彼女の前にある皿を下げると新しいピュイ・ダ・ムールを載せて再び彼女の前に置いた。


「そんなに気に入ってくれて嬉しいよ。作りすぎちゃって沢山あるんだ。よかったら食べてくれない? 俺からのサービスだからさ、頼むよ」


 顔を上げたヨランダが了承しやすいよう、時生はお願いをした。彼女はまだ赤い顔をしていたが、ありがとうと言って微笑むと今度は味わうように食べた。

 それから時生も彼女と同じお茶を自分に煎れ、ピュイ・ダ・ムールを手に取ると豪快に齧り付いた。

 そうそう、これこれ。これが食べたかったんだ。

 時生はうんうんと頷き満足した。冷凍庫に入れたパイが湿気ているか心配だったが、気にならない程度だったのでよしとする事にしよう。

 彼は食べかけのそれを置くと立ち上がり、棚から小さな籠を取り出した。そうしてそこにカルロに分ける分と自分が明日食べる分を除いた後にピュイ・ダ・ムールを詰め始めた。きっとヨランダがこれを持ち帰るだろうと彼は思ったのだ。ヨランダは気に入った菓子があると、いつもそうするのだから。


「あの、トキ。これ持って帰ってもいいかしら」


 それに対し、時生は勿論もう用意はしてあるよと言って笑った。

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