劉備玄徳
翌朝、遠くを眺めていた私は、黄河の向こう岸に異変が起きていることに気づいた。
河面には、大小さまざまな渡し船が次々と現れていた。兵士を乗せる大型の船だけではない。荷物を運ぶ小舟や、形も大きさも異なる輸送用の船まで、かなりの数が集まっている。
羊皮で作られた筏まで見えた。
「おい、あれはどこの軍だ?」
近くにいた兵士に尋ねると、彼は河の向こうを眺めながら答えた。
「劉備殿の軍らしいぞ。兵一万を率いて来たそうだ」
劉備……。
あの劉備が、ここに来るのか。
私は改めて河の向こうに目を凝らした。
それから二刻ほど経った頃、護衛の兵士たちに囲まれ、一人の将が文丑の中軍へ向かって馬を進めてきた。
あれが劉備か。
年の頃は四十前後だろうか。体格はやや小柄で、髭はそれほど濃くない。意外だったのは、その肌の色だった。日に焼けているのか、思っていたよりもずっと黒い。
しかし、表情は実に穏やかだった。
顔には満面の笑みを浮かべ、周囲から飛んでくる「劉皇叔!」「左将軍様!」という呼び声に、気さくに手を振って応えている。
まるで、久しぶりに顔を合わせた知人たちに挨拶しているかのようだった。
そのとき、文丑軍の軍楽隊が動き始めた。
まず太鼓が鳴り響き、続いて、甲高くも力強い嗩吶の音が陣中に響き渡る。
どうやら歓迎の曲らしい。
文丑は早々に中軍から出て、劉備を迎えに向かった。
二人は馬を降りると、互いに歩み寄った。
「玄徳殿、遠路はるばる、よく来てくださった!」
「文将軍、お久しぶりです。こうして再びお会いできて、何よりです」
劉備は笑顔で文丑の手を取った。
二人はしばらく言葉を交わし、やがて並んで歩き始めた。劉備は文丑の手を握ったまま、時折笑顔で何かを話しかけている。
そのまま二人は、中軍の天幕へと入っていった。
私は、遠ざかっていく二人の背中を眺めながら、自分の頭の中にあった劉備の姿と、今見た人物を比べていた。
もっと威厳のある、いかにも英雄らしい人物を想像していたのだが、実際はずいぶん素朴な印象だった。肌も思っていたより日に焼けている。
だが、あの表情は……。
人に対する親しみや温かさが、自然ににじみ出ているように見えた。
少なくとも、笑顔を作っているだけの人間には思えない。
それから一刻ほど経った頃、文丑軍の兵士が二人、私たちのところへやって来た。
「これを受け取れ。劉備殿からの差し入れだ」
そう言って、彼らが置いていったのは、黄米百斤と羊一頭だった。
「これは……?」
「劉備殿が持参されたものだ。各軍にも配られているらしい」
なるほど。
一万の兵を率いてやって来ただけでなく、各部隊に食料まで届けているのか。
しかも、名目だけの贈り物ではない。黄米百斤に羊一頭となれば、かなりの量だ。
昼になると、馮傑が羊肉と野菜を煮込んだ料理を作ってくれた。
湯気の立つ鍋からは、羊肉の香ばしい匂いが漂っている。
私は椀に盛られた料理を口に運びながら、思わず感心していた。
さすがは劉備だな。
人を集めるというのは、ただ立派な言葉を並べればよいわけではない。こうして相手の兵士たちにまで気を配り、食べ物を届ける。
受け取った側は、劉備という人物に好感を持つだろう。
もちろん、これが純粋な親切心なのか、それとも人心をつかむための計算なのか、私には分からない。
だが、少なくとも、羊肉の煮込みを頬張っている今の私にとっては、ありがたい差し入れだった。




