文醜の救援に向かうことになった
文醜の救援に向かうことになった私たち収屍総隊は、徐進千夫長の指揮のもと、延津方面へ向かっていた。
もっとも、私たちの行軍は相変わらず遅かった。
八百人を超える収屍兵たちは、整然とした隊列を組むこともなく、あちらこちらに散らばりながら、だらだらと進んでいく。時折、前の者に追いつこうとする者がいれば、後ろの者は荷物を背負ったまま遅れてくる。
そんな私たちの横を、ある時、文醜の騎兵隊が通り過ぎていった。
およそ七千から八千騎ほどだろうか。
馬も兵士も、装備はかなり整っている。騎兵たちはまとまった隊列を保ち、私たちの収屍総隊を追い越して、延津へと向かっていった。
私は、その姿をしばらく目で追った。
文醜とは、数日前にも顔を合わせている。
袁紹の大営の近くで、私が余っている車輪や輸送用の馬を譲ってもらえないかと、ほかの部隊を回っていた時のことだ。ほんの短い時間だったが、直接顔を合わせ、簡単に言葉を交わしたこともある。
あの時は、まさか数日後に、彼の率いる軍勢が延津へ向かうことになるとは思っていなかった。
白馬の戦いで顔良が敗れたとはいえ、袁紹軍全体の戦力が大きく損なわれたわけではない。むしろ、袁紹軍の優勢は依然として揺らいでいなかった。
精鋭部隊や騎兵、そして多くの軍馬は、すでに黄河を渡り終えている。一方、歩兵や輜重部隊などは、まだ北岸から次々と渡河している最中だった。
私たちが進んでいく間にも、黄河北岸から渡ってきた部隊が、少しずつ延津方面へ集結していくのが見えた。
私は、これほど大規模な軍隊の移動を目の当たりにするのは初めてだった。
白馬で転生したばかりの頃は、自分の置かれた状況を理解するだけで精一杯だった。戦場の様子を落ち着いて観察する余裕などなかった。
しかし今は違う。
目の前を通り過ぎる兵士の数、馬の数、荷車の数、そして部隊ごとの移動の様子を見ながら、私は少しずつ全体の状況を考えられるようになっていた。
袁紹軍が今回の作戦に投入している兵力は、おそらく五万人前後になるだろう。
文醜が率いるのは、精鋭騎兵七千から八千騎、そして歩兵三万人ほど。
さらに、延津の渡し場から南下してくる劉備の一万人ほどの部隊も加わる。
大まかに見れば、これだけの兵力が延津方面に集まることになる。
袁紹軍の狙いも、私なりに見えてきた。
延津から曹操軍の側面へ深く進出し、そこから西へ向かって攻め込む。曹操軍の側面を突き、その後方を塞ぐことで、曹操軍の退路を断つ。そういう作戦なのだろう。
兵力だけを見れば、十分に実行可能な計画に思える。
しかし、私にはどうしても気になることがあった。
袁紹軍の将たちは、あまりにも自分たちの作戦に自信を持ちすぎている。
まるで、曹操軍がこちらの思惑どおりに動いてくれることを、最初から決めつけているかのようだった。
曹操がこの動きをどう見るのか。延津に兵を進めてくる袁紹軍に対して、どのような対策を取るのか。そうした相手側の視点が、彼らの作戦にはほとんど感じられない。
自分たちの考えた作戦だけを机上で組み立て、相手の動きや反応を十分に考えようとしない。
現代の仕事でも、こういうことは珍しくない。上層部が自分たちの計画を正しいと信じ込み、現場からの情報や警告をまともに聞こうとしない。結果として、問題が起きてから初めて慌てるのだ。
今回も、同じようなことが起きるのではないか。
顔良は、すでに曹操軍の動きに関する情報を報告していた。しかし、郭図や審配らの対応によって、中軍の大帳に入ることさえできなかった。
軍師の沮授も、延津での攻撃には強く反対していたという。
彼は、延津方面に兵力を分散させるのではなく、主力を集中させ、曹操軍の正面を一気に撃破するべきだと主張していた。
だが、袁紹はその意見をあっさり退けた。
何度も進言を繰り返した沮授は、ついには袁紹からひどく叱責されたという。
私はその話を思い出し、思わずため息をついた。
これだけの兵力と物資を持ちながら、なぜ相手の動きを考えないのだろうか。
曹操軍が何もせず、こちらの作戦を黙って受け入れてくれるとでも思っているのだろうか。
もっとも、私にできることは限られている。
今の私は、袁紹軍の中でも最下層に近い収屍隊の中隊長にすぎない。大軍の作戦を変えられる立場ではないし、顔良や沮授の進言さえ聞き入れられない状況なのだ。
私たちは、相変わらず文醜の後方に続く形で、ゆっくりと延津へ向かった。
そして翌日の午後、ようやく延津に到着した。




