収死隊の食堂、そしてついに延津への移動命令
朝食の時間になる前に、私は顔良のもとを訪ね、昨夜の偵察で確認したことを報告した。
話を聞き終えた顔良は、特に異論を挟まなかった。しばらく考えたあと、顧墨に詳しい報告書を作成するよう命じた。
顧墨がまとめた報告書にざっと目を通すと、顔良はそれを封書にし、親兵を呼び寄せた。
「これを急いで沮授殿のもとへ届けてくれ」
「はっ!」
親兵は報告書を受け取ると、すぐさま馬に乗り、陣営を駆け出していった。
その後ろ姿を見送った顔良と私は、何とも言えない表情で顔を見合わせた。こちらとしては、できることをした。それがどのように受け止められるかは、結局のところ上層部次第である。
私たちは小さく苦笑し、収屍隊の食堂へ朝食を食べに向かった。
袁紹軍の食事事情についても、少し説明しておこう。
基本的に、袁紹軍の各陣営での食事風景は、どこも似たようなものだった。まるで難民の集団が食料を奪い合っているかのような騒ぎである。
まず、食べ物そのものに統一性がない。手に入ったものを、そのまま食べるというのが基本だった。
粟や黍があれば、まだましなほうだ。野菜といえば漬物が中心で、あとは近隣からその場しのぎに買い集めた食材を、適当に調理して出す。時には、近くで手に入った野菜や豆類などが、まとまりのない料理になって食卓に並ぶこともあった。
だが、最大の問題は、何を食べるかではなかった。
食事の時間や順番に、ほとんど決まりがないことだった。
どの部隊が先に食べるのか、どの部隊が後になるのか。その場で誰かが思いついたように決めるため、食事の時間になると、どこの陣営でも大混乱が起きる。
兵士たちは席を確保しようと机や椅子を奪い合い、飯やおかずを先に取ろうと押し合う。遅れて来た者は、どうにか食べ物を手に入れても、座る場所がない。仕方なく地面にしゃがみ込んで食べる者も少なくなかった。
しかも、先に食べた者の中には、食べきれないほど料理を取って残す者もいる。そうなれば、後から来た兵士たちには食べ物が回らない。
顔良の部隊は、ほかの袁紹軍の部隊と比べれば、多少はましだった。しかし、根本的な違いがあるわけではない。
私がこの時代に転生し、収屍隊に配属されてからというもの、食事のたびに、まるで避難民の炊き出しのような光景を目にしてきた。
だからこそ、中隊長に昇進した際、私は収屍隊専用の食堂を設けることにした。
規模は小さい。食材も顔良の本隊と同じで、その時に手に入るものを食べるしかない。豪華な料理を用意できるわけではなかった。
それでも、食事の順番だけはきちんと決めた。
各小隊の食事時間を少しずつずらし、同時に大勢が押し寄せないようにした。また、順番が固定されて不公平にならないよう、日ごとに交代させることにした。今日、遅い時間に食べる小隊は、明日は早い時間に食べられる。そうした簡単な輪番制である。
さらに、老陳の配下にいる馮傑という伍長を、食堂と食材倉庫の専任担当に任命した。
食堂の運営だけでなく、食材の保管や在庫管理、購入の手配まで、責任の所在をはっきりさせたのだ。
その結果、収屍隊の食堂では、顔良の本隊と同じような食材しか使えなくても、兵士たちは少なくとも落ち着いて食事を取れるようになった。
食べ物が豪華になったわけではない。だが、決められた時間に来れば、きちんと食べられる。席を奪い合う必要もなく、他人を押しのける必要もない。
それだけでも、兵士たちにとっては大きな違いだった。
顔良が鉄牛と武芸の稽古をするようになってから、なぜか彼は自分の天幕で一人食事を取ることが少なくなった。最近では、ほとんど毎日のように私たちの収屍隊の食堂に顔を出している。
名目上、顔良はこの部隊全体の責任者である。そんな彼が特別扱いを求めず、私たちと一緒に食事をするというのなら、私としても異論はなかった。
その日の朝食は、白粥と肉まん、それにいくつかの汁物だった。
私たちは顔良と一緒に食卓を囲み、粥を食べ、肉まんを頬張りながら、ゆっくりと汁を飲んでいた。
その時、収屍総隊の総責任者である千夫長の徐進から、伝令がやって来た。
「中隊長、徐進千夫長からの命令です。大軍が延津一帯へ接近しています。貴隊の収屍中隊からも一小隊を選び、千夫長に同行して延津の戦場へ向かい、遺体の回収など、必要な作業に当たるようにとのことです」
私は箸を止め、顔良と視線を交わした。




