軍営に咲いた一輪の花――洛神の面影
顔良と俺は、一頭の馬と一頭の驢馬を連れ、袁紹軍の雑然とした各陣営の間を縫うように進んでいった。
十里あまり走っただろうか。ようやく、袁紹が黄河南岸に構える中軍の大営にたどり着いた。
まだ中軍の中へ入ってもいないというのに、俺はすでに、周囲の陣営とは明らかに違う空気を感じていた。
まず目に飛び込んできたのは、風にはためく無数の軍旗だった。
大営の周囲には厳重な警備が敷かれ、兵器はきちんと整えられている。軍帳も一つ一つが立派で、広い敷地に整然と並んでいた。大きな軍馬があちこちを行き交い、兵士たちは皆、体格がよく、鎧も鮮やかで、顔つきにも精気が感じられる。
道中で見てきた一般の軍営にいる兵士たちとは、明らかに様子が違っていた。
外から眺めているだけでも、この軍勢がどれほどの力を持っているのかが伝わってくる。
俺は周囲を見回しながら、思わず心の中で嘆息した。
袁紹よ、袁本初よ。
お前の手元には、これほどの財産があるではないか。
兵は多く、将も揃い、物資も豊富。普通の兵士にまで、他の軍勢とは比べものにならないほど立派な装備を与えている。
それなのに、どうしてこれほどのものを無造作に浪費し、まとまりのない指揮と場当たり的な判断で振り回してしまうのか。
これだけの基盤を持ちながら、最後には敗亡へと向かうのだから、何とも惜しい話だ。
そんなことを考えながら、顔良について袁紹の大営へ入ろうとしていた、そのときだった。
遠くから、一隊の軍勢がこちらへ近づいてくるのが見えた。
その装備は、道中で見かけた袁紹軍の兵士たちよりも、さらに上等なものだった。
何より目を引いたのは、騎兵たちが全員、白馬に乗っていることだった。
隊列は大きく、三千人を超えているように見える。兵士たちの鎧も武器も、馬具に至るまでよく整えられており、掲げられた旗も風を受けて大きくはためいていた。
遠目にも、十分に訓練された精鋭騎兵であることが分かる。
彼らは大営の前まで来ると、すぐには中へ入らなかった。まず隊列を素早く広げ、周囲に警戒の兵を配置していく。
もともと警備の厳しい中軍大営だったが、その一隊が到着したことで、周囲の空気はいっそう張り詰めたものになった。
やがて、隊列の中央から二台の馬車が進み出てきた。
どちらも四頭の駿馬に引かれている。馬の毛並みは美しく、体格も立派で、普通の軍馬とは明らかに違っていた。
馬車そのものも華やかな装飾が施され、車体も車簾も上等なものだった。周囲を行き交う軍用の車両とは、まるで別物である。
先頭の馬車の車簾がわずかに開いており、その隙間から中を覗くと、四十代ほどの中年の婦人が座っているのが見えた。
はっきりと顔までは分からなかったが、身に着けている衣装や、その落ち着いた佇まいからして、普通の家の女ではないことはすぐに察せられた。
後方の馬車は車簾が閉じられたままで、中に誰が乗っているのかは分からなかった。
その二台の馬車が大営の門を通ろうとしたとき、思いがけないことが起きた。
後方の馬車を引く四頭のうち、一頭の馬が、蹄で小石を踏んでしまったのだ。
馬の身体がわずかに傾き、驚いたように首を振る。
それにつられて他の馬の動きも乱れ、四頭の足並みが一瞬崩れた。馬車も激しく揺れ、車内にいる者たちも驚いたらしい。閉じられた車簾の向こうから、慌ただしい気配が伝わってきた。
周囲の護衛たちもすぐに緊張し、数人の騎兵が馬車へ駆け寄った。しかし、驚いた馬を落ち着かせるには、まだ間に合っていない。
そのとき、顔良が素早く前へ出た。
彼は迷うことなく、大きな手を伸ばし、驚いて暴れかけた馬の頭をつかんだ。
馬は最初こそ抵抗したものの、顔良の力に押さえられ、やがて動きを落ち着かせた。他の三頭も次第に静まり、激しく揺れていた馬車も、ようやく安定した。
ほんのわずかな時間の出来事だった。
車簾が少しだけ開き、中にいた人物が顔良のほうを見たようだった。
「将軍、ありがとうございました」
車内から礼の言葉が聞こえてきた。まだ少し驚きが残っているようだったが、その声には落ち着きと品があった。
顔良は軽くうなずいただけで、特に言葉を返さなかった。
俺はすぐそばにいたので、開いた車簾の隙間から、車内の人物の横顔を見ることができた。
その瞬間、思わず息を呑んだ。
驚くほどの美貌だった。
ほんの一瞬、横顔を見ただけなのに、目を奪われるほどだった。整った眉と目元には、どこか気品があり、優雅さと美しさが自然に漂っている。
まるで、刀や槍が飛び交うこの戦場には、似つかわしくないほどの美しさだった。
もっとよく見ようと思ったときには、すでに車簾が下ろされていた。
二台の馬車は精鋭騎兵に守られながら、ゆっくりと大営の中へ入っていった。
その一隊が完全に門を通り過ぎるのを待ってから、顔良は俺を連れて再び前へ進んだ。
ところが、俺たちが門に近づくと、二人の人物がこちらへ出てくるのが見えた。
一人は郭図、もう一人は審配だった。
二人は、先ほど馬車が通った場所の近くに立っていた。どうやら、あの一隊を迎えるために出てきたらしい。
そして、二人ともすでに顔良の姿に気づいていた。
だが、最初から最後まで、顔良に声をかけることはなかった。それどころか、視線すら向けようとしない。
郭図は少し声を張り上げ、周囲で警備に当たっている兵士たちに命令を下した。
「よく聞け! 本日、夫人と少夫人に随行してきた者たちを除き、その他の者は、誰であろうと袁紹様の大営に入ることを許さぬ!」
命令を受けた守備兵たちは、すぐさま返事をした。
郭図は指示を終えると、わざわざこちらに顔を向けた。
その視線は、決して偶然こちらへ向いたものではなかった。
俺は郭図を見て、それから隣にいる顔良を見た。
顔良の表情に、目立った変化はなかった。ただ足を止め、静かに前方を見つめている。
先ほどまで俺が感じていた袁紹軍の圧倒的な力。
その強大な軍勢の姿に、今はまた別の意味が加わったような気がした。




