第三節:泥の中の猛将、そして命懸けの賭け
(……顔?)
袁紹軍で黒い大纛を掲げ、あれほどの精鋼製の親衛兵を従える「顔」姓の大将……。
(まさか、顔良か!?)
史実と、この世界でこれから起こるはずの歴史の流れが、瞬く間に脳裏を駆け抜けた。
白馬の戦い。
顔良は曹操軍の奇襲を受け、この戦いで関羽に討たれるはずだった。
そう考えた瞬間、恐怖よりも先に、胸の奥に熱いものが湧き上がった。
前世で、経営破綻した企業の廃墟から、誰も気づいていない中核資産を見つけ出したときの、あの感覚だ。
もし本当に顔良なら――。
こいつを見つけ出し、救うことができれば、俺も生き延びられるかもしれない。
「うわああああっ!!」
先頭を歩いていた仲間の死体拾い兵が、手柄を焦っていたのだろう。積み重なった死馬の遺体をどかし、その下を覗き込んだ途端、恐怖に引きつった叫び声を上げた。
まるで幽霊でも見たかのように、その場に尻餅をつき、泥だらけの地面を這いずりながら、転がるように逃げ戻ってくる。
その死馬の下にいたのは、鉄塔のような巨体を持つ、黒い顔の大男だった。
全身には曹操軍の矢が何本も突き刺さっている。鉄の矢羽がびっしりと並び、まるで巨大な針鼠のようだった。
太腿のあたりは特にひどい。矢で裂かれた肉の隙間から白い骨がのぞき、さらに重甲の破れた部分には、刀で斬られたと思われる深い傷があった。傷口から流れ出た黒ずんだ血が、鎧の隙間から全身に広がっている。
これほどの傷を負っていれば、普通ならもう息絶えていてもおかしくない。
俺が折れかけた「顔」の大旗の前で足を止めた、そのときだった。
目の前の巨大な肉の塊が、わずかに動いた。
胸が大きく上下する。
喉の奥から、血の泡を絡ませた、壊れかけの風箱のような荒い息が漏れた。
「……っ!」
次の瞬間。
巨漢の目が、カッと見開かれた。
銅鈴のような大きな目は、無数の血管で赤く染まっていた。追い詰められ、群れに食い殺される寸前の猛獣。その目には、周囲の人間をすべて噛み殺しかねない、凄まじい殺気が宿っていた。
しかも、右手にはまだ刀を握り締めている。
血に染まった、恐ろしく大きな刀だった。八十斤ともいわれるほどの重さを持つその刃は、夕暮れの冷たい風を受けて、低く不気味な音を立てていた。
あと一歩でも近づけば、残された力を振り絞って、俺の体を真っ二つにするつもりなのだろう。
周囲の死体拾い兵たちは、誰一人として近づこうとしなかった。
老兵の老陳も、少し離れた場所で、目を見開いている。
俺は、震えそうになる足を無理やり動かした。
そして、巨漢の前まで歩み寄ると、ゆっくりと腰を下ろした。
「……」
まず、刀だ。
俺は泥にまみれた手を伸ばし、巨漢が握る刀の背に、力いっぱい押し当てた。
そして、もう片方の手に持っていた布切れを、太腿の傷口に押しつけた。
「大将軍。死にたくなければ、俺の言うことを聞いてください」
声が震えないよう、できるだけ低く、落ち着いた口調で言った。
「俺なら、あんたを死なせずに済むかもしれない。だから、その刀を離してください」
巨漢の目が、俺を射抜く。
その眼差しには、まだ狂気じみた殺気が残っていた。
だが、俺の顔をじっと見つめるうちに、ほんの一瞬、その目が揺らいだ。
やがて、刀を握る腕から力が抜けた。
ガシャン!
巨大な刀が、重い音を立てて泥の中に沈んだ。
「……よし」
俺は息を吐いた。
しかし、次の問題が待っていた。
この巨漢を、どうやって運ぶ?
俺は歯を食いしばり、全身の力を振り絞って背負おうとした。だが、びくともしない。無理に動かせば、こちらの腰が先に壊れそうだった。
仕方なく、俺は懐から、数日前に死体の懐で見つけた銀の半塊を取り出した。
そして、それを老陳に放り投げた。
老陳は銀を受け取ると、俺の顔を一度見た。
何も言わず、ただ小さくうなずく。
どうやら、話は通じたらしい。
二人で巨漢の体を起こし、それぞれ片方の肩を支える。泥に足を取られながら、どうにか少しずつ引きずっていった。
天下を変えるだの、歴史の筋書きをぶち壊すだの、そんな大それた話は今の俺には関係ない。
今はただ、この男を死なせてはならない。
こいつを生き延びさせることが、官渡の地獄から俺自身が逃げ延びるための、唯一の切符になるかもしれないのだ。
幸い、近くの水たまりに、泥に半ば沈んだ一輪車が転がっていた。
俺はそれを引っ張り出し、何とか車輪を回せる状態にした。巨漢の体を横たえ、戦場に落ちていた旗布を上からかぶせる。
これで少しは目立たなくなるだろう。
俺たちは一輪車を押し、戦場の外れへと向かった。
できるだけ人目につかないよう、兵士たちの視線を避けながら、茂みの陰を選んで進む。
戦場からさほど離れていない荒れた山の麓に、小さな廃道観があった。
一部屋ほどの粗末な建物で、長い間、人の出入りもなかったらしい。雑草が生い茂り、壁は崩れかけ、祀られていた神像も倒れていた。
戦乱の世では、こうした名もない道観など、乱兵に荒らされるか、放置されるかのどちらかだ。
俺は顔良の体を何とか中へ運び込んだ。
薄暗い室内に、かすかな夕暮れの光が差し込んでいる。
改めて見ると、ひどい有様だった。
鎧は砕け、全身に矢傷がある。特に太腿の傷は深く、まだ血が流れ続けていた。
俺は使えそうな布を探し、比較的汚れていない部分を引き裂いた。傷口に布を強く押し当て、まずは出血を抑える。さらに別の布を巻きつけ、できる限りきつく固定した。
医者でもなければ、まともな道具もない。
できることは限られている。
それでも、何もしないよりはましだ。
「……頼むから、ここで死ぬなよ」
俺がようやく一息つこうとした、そのときだった。
「この野郎! こんなところに隠れてやがったのか!」
聞き覚えのある怒鳴り声が、道観の外から飛んできた。
あの忌々しい小隊長、黄皮だ。
「さっさと戻って仕事をしろ! 何をぐずぐずしていやがる!」
まずい。
ここで顔良を見つけたことが知られれば、何をされるかわからない。
俺は顔良にかぶせた旗布をもう一度整え、何事もなかったかのように立ち上がった。
そして、うつむいたまま道観を出た。
小隊長の罵声を浴びながら、俺は臨時の兵舎へと戻っていった。




