第二十節 300人超えの傷病組誕生そして伍長も
取り外した鉄片や革紐、木板、縄、それに細かな部品なども、もはや無造作に積み上げておくことはなかった。用途ごとに分類し、必要なときにすぐ取り出せるよう、きちんと保管することにした。
さらに私は、回収した物資の一つ一つについて、簡単な記録を残すよう指示した。どこから回収したものなのか、数量はいくつあるのか、何に使う予定なのか。それだけでも記録しておけば、後から探すときに困らないし、苦労して集めた資材が、いつの間にか陣営の中から消えてしまうような事態も防げる。
もっとも、こうしたことの一部は、私が命じる前から顧墨がすでに始めていた。
私の指示や陣営の様子を眺めていた老陳は、とうとう笑いをこらえきれなくなった。
「隊長、ここまでやると、もう収尸小隊とは呼べませんね。何でも直せる、何でも作れる、ちょっとした工房みたいなものじゃありませんか!」
私は笑って答えた。
「それの何が悪い? 戦場には拾い集められる物がいくらでも転がっている。だが、それを再び役に立つ物に変えられる人間は、そう多くないんだ」
私は、陣営のあちこちで忙しく働く兵士たちを見渡し、さらに言葉を続けた。
「せっかく回収する役目を担っているんだ。ただ物を運び込むだけでは意味がない。修理できるものは修理する。改良できるものは改良する。そのまま使えないものなら、分解して別の用途に使えばいい。まだ価値が残っているものを、簡単に捨てる必要はないだろう」
老陳は納得したようにうなずいた。
鍛造組が設立され、そこに木工や裁縫の担当者も加わったことで、私たちの物資再利用能力は大きく向上した。
壊れたものを直し、古いものを別の用途に転用し、役に立たないと思われていたものを新たな道具へと生まれ変わらせる。今では、戦場から持ち帰ったものなら、ほとんど何であっても私たちの陣営で何らかの役割を与えられるようになっていた。
物資が極端に乏しいこの三国時代において、これは決して小さなことではない。新しい物資を手に入れることが難しい以上、手元にあるものを最大限に活用できるかどうかは、部隊の生存にも直結する。
ただし、私には何よりも優先しなければならないことがあった。
それは、戦場に取り残された負傷兵を救助することだ。
助け出した後も、できる限り余計な損耗を防ぎ、生存率を高め、回復を早める。そのための人員と物資を確保することが、私たちの最も重要な仕事だった。
そもそも、死体の回収は収尸小隊全員で行う仕事だ。特定の班だけに任せる必要はない。誰であろうと、手が空いていれば回収作業に加わる。それが私たちの基本方針だった。
一方で、小隊全体の組織体制と、それぞれの専門業務については、明確に分担しておく必要がある。
そこで私は、医療救助、鍛造・修理、警衛という三つの専門部門を設け、各担当者を決めることにした。
私自身は収尸小隊の隊長として、全体を統括する。
そして、私を補佐する中心人物が二人いた。老陳と顧墨である。
老陳には、収尸小隊本来の仕事を任せた。戦場での死体の回収はもちろん、武器や装備、その他あらゆる物資の収集も彼の担当だ。いわば、現場で物を集める仕事全般を取り仕切ってもらう。
顧墨には、文書や記録の管理、情報収集を任せた。それに加えて、医療救助組の運営も担当してもらうことにした。負傷兵の状態や治療の経過を記録し、必要な物資や人員を把握するには、彼のように細かな仕事を着実にこなせる人間が適任だった。
警衛組の責任者には、穆鐵牛を伍長として任命した。彼には陣営の警備や巡回、出入りする人間の確認などを担当させる。
そして鍛造組の責任者は、もちろん夏天臺だ。鍛造だけでなく、木工班や裁縫班の担当者も含め、修理と再利用に関する仕事をまとめて任せることにした。
こうして、私たちの収尸小隊は、回収作業を全員で担いながら、専門分野ごとに役割を分ける体制へと変わっていった。
ただ、私たちの陣営には、もう一つ忘れてはならない集団があった。
それは、私が戦場から救い出した三百人余りの負傷兵たちである。
彼らは顔良軍の兵士たちとは別に、私たちの陣営で暮らしていた。
傷が癒えた者も少しずつ増えていたが、彼らの大半は、元の所属部隊に戻ることを望んでいなかった。かといって、故郷へ帰ろうとする者もほとんどいない。
理由は単純だった。
今の彼らにとって、元の部隊に戻ることも、故郷へ帰ることも、必ずしも安心できる選択肢ではなかったからだ。どちらへ向かったところで、食糧不足や戦乱に巻き込まれる危険がある。負傷した身体で、それらを乗り越えられる保証もない。
それに比べれば、私たちの陣営には食べ物があり、寝る場所があり、負傷者を見捨てないという決まりもある。物資の面でも、精神的な面でも、彼らにとってはここで暮らすほうがずっと安心できたのだろう。
当初、私は彼らを顔良軍に編入してもらうことも考えていた。
しかし、顔良軍そのものが、今はほとんど仕事を与えられていない状態だった。顔良の配下にいた数名の偏将軍も、すでに戦死している。指揮系統は混乱し、残っているのは二、三名の千夫長と五、六名の大隊長ばかりだった。
彼らは、どうにか毎日の部隊運営を維持するだけで精いっぱいであり、三百人もの負傷兵を新たに受け入れて管理する余裕などなかった。
そこで私は、負傷兵たちをまとめて管理するため、独立した「傷病組」を設けることにした。
その責任者には、先日、私が背負って陣営まで連れ帰った百夫長の孫江用と、同じときに救助した孫新港の二人を任命した。
二人には見習い伍長の肩書を与え、当面は共同で三百人余りの負傷兵を管理してもらうことにした。
もちろん、傷病組はいつまでも負傷兵だけを集めておくための組織ではない。
彼らの傷が癒え、体力が戻ってきたら、それぞれの能力や経験、そして本人の希望を考慮したうえで、医療救助班、鍛造班、あるいは警衛班へと振り分けていくつもりだった。
元の部隊に戻ることだけが、兵士の行き先ではない。
ここで新しい役割を見つけ、もう一度、自分の力を発揮できる場所を得る。それもまた、一つの道なのだ。




