第十五節 独眼夏候
「曹操軍だ!」
後方の兵士が叫んだ。
振り返ると、七、八騎の騎兵がこちらへ向かってきていた。
俺は思わず舌打ちした。
負傷兵を背負っている以上、走って逃げることはできない。弓矢を射かけられれば、こちらは身を守ることさえ難しい。
ところが、曹操軍の騎兵たちは弓を構えようともしなかった。
おそらく、こちらを大した相手ではないと見くびっているのだろう。あるいは、矢を使うまでもないと考えたのかもしれない。
彼らはそのまま馬を走らせ、俺たちの一団を正面から踏み潰すように突進してきた。
「鉄牛!」
俺が叫ぶより早く、鉄牛が前へ出た。
実は出発する前から、俺は鉄牛にだけ、いざというときの役割を伝えていた。
相手が騎兵であれば、正面から逃げるのではなく、こちらの陣形を崩さず、先頭の馬を止める。鉄牛の怪力なら、敵が油断して突っ込んできた瞬間に、その勢いを利用できるかもしれない。
鉄牛は新しく手に入れた鉄鎚を両手で握り、迫ってくる騎兵を見据えた。
「おおおっ!」
次の瞬間、鉄鎚が横薙ぎに振り抜かれた。
先頭の騎兵は、まさか一人の歩兵がこれほどの武器を振るうとは思っていなかったのだろう。馬の進路を変える間もなく、激しい衝撃を受けて落馬した。
後続の騎兵たちも、思わず手綱を引いた。
その一瞬の隙に、鉄牛は大声を張り上げた。
「まだ来るか! 次は誰だ!」
騎兵たちは互いに顔を見合わせた。
相手は十数人の収尸兵にすぎない。しかし、その中に、これほどの怪力を持つ男がいるとは予想していなかったらしい。
彼らは無理に突撃を続けず、距離を取った。
そして、後方から新たな蹄の音が聞こえてきた。
今度は七、八騎どころではない。
二十騎を超える騎兵が、隊列を整えてこちらへ近づいてくる。
先ほどの騎兵たちとは明らかに違った。
甲冑はよく手入れされ、馬具にも乱れがない。兵士たちの動きにも無駄がなく、互いの距離を保ったまま、こちらを包囲するように広がっていく。
その中央に、ひときわ目立つ将軍がいた。
背丈は高く、堂々とした体格。甲冑の上からでも鍛え抜かれた身体つきが分かる。顔には威厳があり、片目を覆うような傷跡が見えた。
その将軍の背後には、「夏侯」の旗が翻っている。
曹操軍の将官だ。
しかも、ただの将官ではない。周囲の騎兵たちが、彼の一挙手一投足に注意を払っている。相当な実力者であることは、ひと目で分かった。
将軍は馬を進め、俺たちの前で止まった。
「お前たちは何者だ?」
声は低く、よく通った。
俺は負傷兵を背負ったまま、できるだけ落ち着いて答えた。
「袁紹軍の収尸隊です。戦場に残された負傷兵を救助し、陣地へ運んでいるところです」
「収尸隊だと?」
将軍は俺たちの姿を見回した。
負傷兵を背負う者、担架を持つ者、武器を手にして後方を守る者。誰もが泥と血にまみれている。
その視線が、やがて鉄牛の手にある巨大な鉄鎚に止まった。
「先ほど、我が兵を落馬させたのはお前か?」
「そうだ!」
鉄牛は堂々と答えた。
「こいつらは俺の仲間だ。負傷した仲間を背負っているんだ。邪魔をするなら、俺が相手になる!」
「鉄牛、口を慎め!」
俺は思わず声を上げた。
相手は二十騎以上の精鋭騎兵を従えた将軍だ。こちらは負傷者を抱えた収尸兵である。まともに戦えば勝ち目はない。
しかし、将軍は怒るどころか、わずかに口元を緩めた。
「面白い。ならば、少し相手をしてやろう」
そう言うと、彼は馬上から長柄の武器を受け取った。
「来い!」
鉄牛は鉄鎚を握り直した。
「おおっ!」
二人がぶつかった。
最初の一撃は、鉄牛が放った。
巨大な鉄鎚が風を切り、将軍の身体を狙う。しかし、将軍は馬を巧みに操り、わずかな動きでそれをかわした。すぐさま長柄の武器を返し、鉄牛の肩口を狙う。
鉄牛は身をひねって受け止めた。
金属が激しくぶつかり合う音が響いた。
一合、二合、三合。
そのたびに、鉄鎚と長柄の武器が火花を散らす。
鉄牛の力は凄まじい。普通の兵士なら、一撃を受けただけで武器ごと吹き飛ばされてしまうだろう。
だが、相手の将軍もただ者ではなかった。
力任せに受け止めるのではなく、鉄牛の動きを読み、馬の動きと武器の長さを巧みに利用している。攻撃をかわしながら、反撃の隙をうかがっていた。
俺は背負っていた負傷兵を仲間に預け、戦いを見守った。
十合を超えても、勝負はつかない。
十五合、十八合。
鉄牛の息が荒くなってきた。
それでも彼は退かなかった。
二十合を超えたところで、将軍の長柄の武器が鉄鎚の柄に強く打ち込まれた。
鈍い音がした。
次の瞬間、鉄鎚の柄に亀裂が走り、ついに折れた。
「鉄牛!」
俺が叫んだ。
武器を失った鉄牛は、すぐに身を引こうとしたが、将軍の追撃が迫る。彼はとっさに折れた柄を盾のように構えたものの、長柄の武器がその肩口を強く打った。
鉄牛の巨体が地面に倒れた。
将軍は馬を進め、武器を構えた。
「勝負あったな」
周囲の曹操軍兵士たちが、一斉にこちらへ動いた。
「将軍、こいつらを皆殺しにしましょう!」
「袁紹軍の兵です。逃がす必要はありません!」
俺は思わず前へ出ようとした。
しかし、負傷兵を守らなければならない。ここで俺たちが戦えば、背負っている三人も、周囲の仲間も助からない。
鉄牛は地面に倒れたまま、苦しそうに息をしていた。
それでも、俺たちの方を見て叫んだ。
「頭儿……行け! こいつらを連れて帰れ!」
「馬鹿野郎! お前を置いていけるか!」
俺は歯を食いしばった。
そのとき、将軍が周囲の兵士たちを一喝した。
「待て!」
その声に、騎兵たちの動きが止まった。
将軍は地面に倒れた鉄牛を見下ろし、さらに俺たちの姿を眺めた。
「こいつらは、敵味方の区別もなく、戦場に倒れた仲間の死体をそこまで大切に拾い集めているのか」
彼は、背負われた負傷兵たちに目を向けた。
「自分たちが危険を冒してまで、仲間を連れ帰ろうとしている。ならば、ここで無理に命を奪う必要もあるまい」
そして、周囲の兵士たちに向かって言った。
「許してやれ。負傷者を連れて帰る者たちだ。これ以上、手を出すな!」
彼は鉄牛をもう一度見た。
「大男。次に会うときは、折れない武器を持ってこい」
そう言い残すと、将軍は馬首を東南へ向けた。
「行くぞ!」
二十騎を超える精鋭騎兵たちは、将軍の後に続き、土煙を上げながら遠ざかっていった。
俺たちは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
敵将が俺たちを見逃したことも驚きだったが、何より、あの独眼の将軍の威厳と風格が忘れられなかった。
「頭儿……今の将軍、何者なんだ?」
鉄牛は肩を押さえながら、苦しそうに身を起こした。
「わ、分からない。だが、ただ者ではない。まさか、、、」
俺は、遠ざかっていく騎兵の一団を見つめた。
その進んでいく方向を、もう一度確認する。
東南。
あちらへ進めば、延津がある。
「老陳。あの将軍が向かった先は、延津の方向か?」
俺が尋ねると、老陳は遠くを見てからうなずいた。
「そうですね。あの方向なら、延津でしょう」
俺は、夏侯の旗が消えていった先を見つめた。
あの独眼の将軍。
あの威風堂々とした姿。
そして、彼が率いていた精鋭騎兵。
なぜ、彼らはこの場所にいたのか。
なぜ、延津の方向へ向かっていたのか。
俺の胸の奥に、嫌な予感が生まれ始めていた。
延津――。
その地名を頭の中で繰り返しながら、俺は鉄牛の肩を支えた。
「まずは戻るぞ。全員、負傷者を連れて帰る。鉄牛、お前もだ」
「へへ……あの将軍、強かったな」
「当たり前だ。あんな相手に、よく二十合も持ちこたえたな」
「次は勝つぞ!」
「その前に、折れない武器を探してやる」
俺たちは、再び歩き始めた。
背中には、まだ息のある仲間たち。
そして、俺たちの前には、まだ見ぬ危機が待ち受けているような気がしてならなかった。




