十三節 今まで誰にも顧みられなかった命を、救おうとする者がここにはいる。
これで、ようやく最初の一歩を踏み出せる。
だが、命令を出しただけでは何も変わらない。
俺はその日のうちに、負傷兵が集められている場所へ向かった。
伍長から、実質的に独立した部隊を率いる小隊長へ。しかも、顔良将軍の直命を受けて動ける立場になった。
前世では、国境を越えて事業を展開する大企業で、組織運営や経営管理に携わってきた。そんな俺にとって、権限を与えられた初日から、強烈な職業上の違和感を覚えることになった。
――これは、あまりにもひどい。
この時代の負傷兵の収容所は、戦場の後始末をする場所というより、粗末な難民キャンプに近かった。
砕けた甲冑が通路に積み上げられ、血を吸った布は、洗われることもなくあちこちに放置されている。傷を負った兵士たちは、風も通らない狭い天幕に押し込められ、うめき声と悪臭が充満していた。
傷口が膿んでいる者もいれば、高熱にうなされている者もいる。隣の者が息を引き取っても、誰も驚かない。死体を運び出す人手すら足りず、いつの間にか、その光景が当たり前になっていた。
この時代の人々にとって、重傷を負った兵士が生き残れるかどうかは、天命に近いものだったのだろう。
しかし、俺の目には違って見えた。
これは天命などではない。
不衛生な環境、杜撰な物資管理、無計画な人員配置、そして負傷者を使い捨てにする考え方。そうした無知と無能な管理が積み重なった結果、本来なら救えたはずの命まで失われている。
経営の世界で言うなら、これは明らかな「不要な損失」だった。
俺は周囲を見回し、すぐに三人へ指示を出した。
「老陳! 何人か連れて、そこらに散らばっている汚れた布を全部集めてくれ。大鍋で水を沸かし、布を入れて十分に煮るんだ。使えるものと、もう捨てるしかないものも分けておけ!」
「わ、分かった。だが、そんなに煮てどうするんだ?」
「傷口を覆うためだ。血や汚れがついた布を、そのまま使い回すわけにはいかないだろう。煮沸したら、清潔な場所で乾かしておくんだ」
「なるほど……」
「鉄牛!」
「おう!」
「傷口がひどく膿んでいる者や、高熱を出している者を見つけたら、できるだけ別の場所へ移してくれ。同じ天幕に押し込めておくな。病人同士で状態を悪化させる可能性がある。天幕の垂れ幕も開けて、空気を入れ替えるんだ。ただし、動かすと危険な者は無理に運ぶな。まず俺に知らせてくれ」
「分かった! 任せろ!」
「顧墨!」
「はい、小隊長」
「この周辺で手に入る三七、艾草、地榆、槐葉を集めてくれ。薬草に詳しい者がいたら、そいつも連れてこい。種類ごとに分けて、使い方を確認する。すぐに使わないものは洗って乾燥させ、名前を書いて保管しておくんだ。混ぜてしまうなよ」
「薬草まで集めるのですか?」
「そうだ。何がどの傷に使えるのか、まだ十分に分かっていない。だからこそ、まずは種類を分けて、詳しい者の知識を借りる。分からないものを適当に使うな」
俺は次々と指示を出した。
どれも、彼らからすれば、さほど重要には思えない仕事だったかもしれない。
布を煮る。天幕を開ける。病人を分ける。薬草を集める。
そんなことをしたところで、戦場で負った傷が治るわけではない。もっと大切なことがあるだろう――そう考える者もいたはずだ。
だが、俺は命令を出して終わりにはしなかった。
老陳たちと一緒に動き、布の集まり具合を確認し、煮沸の時間や乾燥させる場所を見て回る。鉄牛が負傷者を移動させるときには、どの者を先に運ぶべきかを一緒に考えた。顧墨が薬草を集めてくれば、種類や量を記録させ、後から見ても分かるように整理した。
問題があれば、その場でやり方を変える。
指示が伝わっていなければ、もう一度説明する。
人手が足りなければ、自分も手を動かす。
小隊長になったからといって、椅子に座って命令だけ出しているつもりはなかった。
俺たちの収尸小隊にいる五、六十人の多くは、鉄牛と同じように、もともと俺が死の淵から拾い上げた者たちだった。
彼らは、自分たちがどれほど危うい状態で生き残ったのかを知っている。だからこそ、負傷者を見捨てないという方針には、少なからず共感してくれるはずだった。
一方、顔良の配下にいた兵士たちは、将軍の命令だから従っているだけという者も多かった。
最初のうちは、反発もあった。
「どうして、わざわざ汚れた布を煮なければならないんだ?」
「風を通したところで、傷が治るわけでもあるまい」
「薬草を集める暇があるなら、武器でも集めた方が役に立つんじゃないか?」
そんな声が、あちこちから聞こえてきた。
それでも俺は、焦らなかった。
すぐに全員を納得させる必要はない。結果を見せればいい。
そして、三日が過ぎた。
最初に変化が現れたのは、負傷兵たちの様子だった。
煮沸して乾燥させた清潔な布で傷を覆い、傷の状態に応じて手当てを行う。膿がひどい者や高熱の者は、可能な範囲でほかの負傷者から離す。天幕には風を通し、寝床の周囲に散らばっていた汚れた布やゴミを片付ける。
たったそれだけのことでも、少しずつ違いが出始めた。
以前なら、傷口が化膿して高熱を出し、そのまま衰弱していった者たちの中に、持ち直す者が現れたのだ。
顧墨には、負傷者の名前、傷の程度、手当てを始めた日、その後の容体を記録させていた。
その記録を見直してみると、手当てを始めてからの三日間で、以前なら命を落としていたと思われる重傷者の生存率が、目に見えて改善していた。
記録上、死亡者は従来と比べて七割近く減っていた。
もちろん、まだ三日間の結果にすぎない。負傷の程度も一人ひとり違うし、すべての者を救えるわけではない。それでも、これは偶然で片付けられる変化ではなかった。
「小隊長……」
ある兵士が、俺のところへやってきた。
その顔には、まだ疑いが残っている。しかし、以前のような反発はなかった。
「本当に、こうすれば助かる者が増えるんですね」
俺は、天幕の中で横たわる負傷兵たちを見た。
三日前には、誰もが見捨てられると思っていた者たちだ。
「当たり前だ。傷を負ったからといって、すぐに死ぬわけじゃない。助かる可能性があるなら、俺たちはその可能性を少しでも高くする。それが俺たちの仕事だ」
俺は、もう一度周囲を見渡した。
まだ足りないものだらけだ。
清潔な布も、薬草も、人手も、運搬用の担架も足りない。まともな治療を行える者も少ない。負傷兵を収容する場所も、これから整えていかなければならない。
だが、少なくとも一つだけ、確かなことがあった。
今まで誰にも顧みられなかった命を、救おうとする者がここにはいる。




