4頁『にげろ!』
【マテリアス・コンバート】。
その魔法が放たれた瞬間、世界は文字通り一変した。
木々は薙ぎ倒されるわけでも、大地は掘削されるでもなく。
ただ見たままを伝えるだけになってしまうが、本当の意味で消失してしまったのだ。
「人を酸素に変えるって……なるほど。肉体を構成する物質そのものを酸素に変換させるのか」
なんで魔法が失伝したのかが想像できてしまう。強大な技術とは使い方を一歩間違えれば、人類を絶滅させてしまうほど危ういものだ。
想像できてしまう俺が本当に嫌だ。
「……ん……?」
くらり。
足や腕から力が抜けていく。体に力が入らない。というか平衡感覚が失われている……?
「う、ぶっ、ぉぇ……」
喉の奥から込み上げる圧迫感。耐えきれずに嘔吐する。息を吸えば吸うほど症状が悪化しているような気さえする。……間違いない。悪化している。
原因を考える。考えられる要因として2つ。
まず衝撃波で頭でもぶつけて脳震盪を起こしたことが挙げられる。けれどそれだと、息を吸って症状が悪化する理由が――
そういえば、息が吸いやすすぎる。
吐き気、めまい、平衡感覚の喪失。
『素材を変換する戦略級魔法』。
『手からビームを発射して対象を構成する元素のすべてを、酸素に強制書き換えすることができる……何言ってんのこれ?』。
…………。
……まさか、原因は酸素にある?
「……人を酸素に、いきなり、書き換えたんだ。……まさか。酸素過多か?」
ここらの大地・森林・人という膨大な質量が、いきなり全て酸素に変換されたのだ。高濃度の酸素が俺の体内に吸引されていてもおかしくはない。
俺の知識が正しければ、この状態が続くと酸素中毒に陥って肺やら脳やら神経に深いダメージを負って死んでしまう。
「逃げ、なきゃ……」
立ち上がる時、隣で倒れる赤髪を見た。この光景を作った元凶の一端。【マテリアス・コンバート】の発動を犯罪とするならば。間違いなく俺の共犯者となった女だった。
「……。」
俺ひとりで逃げれば生存率は上がる。
……でも。逃げなきゃ、死ぬからな。
◆◇◆◇
ゆらり、ゆらり。
亀のように遅い歩みに揺られながら。
背負ったアスティの重みに耐えながら。
酸素が充満した地獄に苦しみながら。
俺は果てのない逃走に足を急がせていた。
息を切らせるだけで取り込む酸素量が増え、どうしたって肺に溜まる酸素量は規定量を逸脱してしまう。だからあまり急ぎたくない。
「くぅ……重い……」
けれど問題は背中のアスティだ。着ている重装備を勝手に脱がせるわけにもいかず、体感およそ60キロくらいの錘を背負いながら歩いているのだ。
騎士の甲冑は20〜30キロほどの重さを持っている、と何処かの資料で読んだ。俺はそれを背負って酸素濃度の高い地獄の道を歩かなければならないのだ。
「あ……。ま、ずぃ……」
崩れそうになる体を、根性だけで立て直す。
ふらり、ふらり。よろり、よろり。
歩みを進める足も力が入らなければ意味がない。酸素過多の影響でどうしても頭が回らないし、この後どうするかなんて考えにも至れない。
頭から抜けていることが多すぎる。
「あと、どの、くらい……」
どのくらい、歩いたのだろう。
どこまで、歩けばいいのだろう。
目的地もない歩みは、それでも止まれない。
「……っ」
でも。疲れた。歩き疲れた。
頭もガンガンするし。何よりも安易に呼吸が出来ないことが、これ以上ないほど体力を削っていくのが、環境条件として非常に厳しい。
眠い。……眠い。……眠ぃ。
弱っていく意識と足に鞭を打って、歩き続ける身体もそろそろ限界を迎えようとしている。
限界なんて超えられない。それが人間だ。どうせ背中の女も寝てるんだし、もう眠ってしまっても良いのではないだろうか。そんな思考が脳裏をよぎる。
「『……来たれ神の息吹。聖域の残光』」
肩口から声が聞こえる、弱々しくも気高い女性の声。今にも消え入りそうなほどか弱くも、確かに俺の背中を押した。
「『修復せよ。修復せよ。修復せよ。神なる力を必要とする者らに、慈悲の光を与えたまえ』――【クーレ】」
その魔法名が聞こえた瞬間。体を蝕んでいた頭痛や吐き気が少しだけ和らぎ、体力も少しだけだが回復して眠気も無くなった気がした。そして俺は振り向くことなく問いかける。
「アスティ。……起きてたのか?」
「……はい。いま、わたしにできる回復魔法です。お手数を……」
「降りるな。疲れてるだろ、おぶられてろ。……けど空気はあまり吸うなよ。この酸素は体に毒だぞ。あと寝るな。凍死するぞ」
「寝るな、とは。なんと手厳しい……。はい。わかりました」
必要最低限の情報だけを伝えて足を動かす。こうなれば無心だ。一刻も早く安全な場所まで運んでやる。
その間、気まずい雰囲気を吹き飛ばすために、俺は用意していた質問を投げかける。
「アスティ。ひとつ、聞いてもいいか」
「どうしました?」
「【マテリアス・コンバート】を発動した後、どうなった?」
どうしてかあまり記憶がない。ないのに、気がつけば周囲は凍っていて、冬というか極寒の土地のような光景に変わっていた。おまけに空気は人類にとっての毒と化している。
ド派手な雪女がいたものである。
「……爆発が起こり、衝撃波が発生。爆発そのものは【アマラ】で防ぎましたが、衝撃だけは防ぎきれず。わたしが魔力不足で倒れ込んでいる間にケイが気絶し、数分後に目を覚ましました」
「なるほど。怖っ」
つまりその数分間、俺は何も知らずに高濃度の酸素を吸い続けていたというわけか。そりゃ酸素過多にもなるわ。あと何分寝てたら死んでたんだろう。
空気を吸うことを躊躇し始めて口数が少なくなる。しかし背中の客人は、俺とは逆に眠ってしまわないための会話をしたいのだろう。ゆっくりとした言葉で問いかけてきた。
「……ケイ。わたしからも、いくつか聞いてもよろしいですか」
「なんだ? 悪いが手短に頼む」
「ケイの目的を聞かせてください」
思考が止まった。幸い、足は止まっていない。けれど俺の頭はアスティから漏れる敵意にも似た、緊張感や警戒感が入り混じる張り詰めた声音に、これ以上ないとも断言できる恐怖を感じた。
「目的? なんの……って、聞いてもいいのか?」
「知らないのですか? 渡り人は基本、街の中に突然現れるのです。貴方のように郊外の森の中……騎士と賊が戦っているような場に忽然と現れるなんて前例は聞いたことがありません」
「……つーと、なんだ? 俺のことを、他国からの間者だと疑ってるのか?」
「包み隠さずにいうのであれば……肯定しておきましょう」
なんでだ。助けてやってるのに。命を預かってやってる側なのに、なんで疑われなきゃいけないんだ。
「……うっ」
敵意を向けてくる相手に背中を貸してる焦燥感が暴走し、酸素過多の影響も相まって吐き気を覚える。
高鳴る心臓と、ぐるぐると迷走し始める思考に、俺はさらに焦りを加速させる。
……助けなきゃ良かったかな。
助けなきゃ、面倒なことにはならないだろうし。あの凶悪な魔法が外に漏れる可能性を、ひとつ潰せるかも――
「――落ち着いてください。別に殺そうとも。詰問しようとも思っていません。深呼吸……は出来ないですね。難しいでしょうが、心を穏やかにして聞いてください」
「ッ……。出来ると思うのか?」
アスティへの警戒を明確にした俺は、自分でも驚くほど怒気のこもった言葉を放つ。
しかし言葉の矛先を向けられたアスティは怯むことなく、何か確信めいた感情を込めて言う。
「はい。出来ます。渡り人である貴方なら。きっと」
魔導書を書いたヤツもそうだが、俺より前にこの世界に来た地球人共は何をしでかしたんだ。
「これまでこの世界には、渡り人と呼ばれる特殊な服装の方々がやってきました。わたしが着ている甲冑も、渡り人の世界から渡来した知識を模倣した物です」
「だろーな」
「記録されている渡り人は、その殆どが何かしらの知識で世界に革新を起こしたと言われています。宗教を布教し教皇となった者。……犯罪を持ち込み、魔王と呼ばれるようになった者。様々です」
ちゃんとダメじゃん。魔王になったやつとかマジで何やってるんだ。パンドラの箱を開けてんじゃねえよ。
……これは少し調査が必要だな。過去の渡り人が何をしてきたのかを知る必要がある。場合によっては焚書しなければいけない知識もあるかもしれない。
全部、ここを生き残ったらの話だが。
「様々な才能、知識が渡り人の世界から持ち込まれましたが……その活用方法はそれこそ様々。わたしたちでは思いつくことが出来ない技術で世界の法則を塗り替えた」
「俺も、そんな天才たちの1人だと?」
「はい。今も、貴方がわたしを騙して王国に潜り込もうとする渡り人なのではないか。なんて疑心に駆られる理由としては、当然ではないでしょうか?」
個人ではなく騎士として。あくまでも職務だから警戒している、というアスティ。
しかし俺からの警戒が解けることはない。当然だ。アスティの言うそれは、つまりアスティの裁量次第で俺の死が決まるということなのだから。
口を開かない俺に、アスティは尚も言葉を紡ぐ。
「貴方は戦闘状態のわたし達の前に現れ、「召喚された」とだけ言って戦闘に巻き込まれ、わたしたちに助けを求めてきた。わたしが助けに入った後、何の躊躇もなく魔導書から戦略級魔法を引き出して渡した。……冷静に考えたら、恐ろしいことこの上ありません」
「…………あー」
客観視したらそうなるのか。俺は助けを求めても、戦場にいる騎士も賊も警戒するばかり。
「んじゃ俺は、好きで来たわけでもないのに警戒されて、人殺しに加担させられて。俺はどうすれば良かったんだ? ……えっ。素直に殺されてろってか?」
単純な疑問だった。過去の渡り人は、こういう時はどうやって乗り切ったのだろう? そんな疑問が脳裏によぎり、反射神経を経由して口に出た。
そこでハッとする。魔法で体力を回復していても、全快して調子がいいというわけではない。口に出そうとも思ってなかった言葉が、閉じた唇を突いて出た。
慌てて口を閉じるも時すでに遅し。アスティが言葉を失っているのを、背後にいるというのに振り向かなくてもわかった。
「それは……」
「……悪い。言葉の綾だ。俺を助けてくれた人が、そんなこと思うわけないからな」
「いえ。わたしも言葉遣いを間違えました」
……。少し気まずい雰囲気が流れる。
そんな雰囲気を断ち切るように、アスティが喉を揺らした。
「んんっ! しかし。ケイの言葉が真ならば、街ではなく郊外に召喚されたと言うことなのですよね」
「まー。そうなるな」
「本来、渡り人は街の中に忽然と姿を現すものなのです。誰が呼び寄せているのか皆目見当もつきませんが、この法則が崩れた例を今まで聞いたことがありません」
「そうなのか」
「はい。そうなのです」
じゃあ俺は意図してあの場に召喚されたということか。理由はなんだろう。考えられるのはやはり魔導書絡み……いやでも待て。そもそも魔導書が目的だって言われていた……あれ。何でここにあるんだ?
ふい。と少しだけ振り向き、頬を俺の肩に預けるアスティを見る。
「……? どうかされましたか?」
「いや。なんでもねー」
それこそまさかな。
「……しかし。ケイが郊外に召喚された理由は何なのでしょうか。何かしらルールと異なる行動でも取りましたか?」
「そんなことはしてねーはずだけどな」
「ふむ……ケイに問題がないとすると。問題は召喚者側でしょうか。というか。そもそも渡り人を召喚している者とは何者なのでしょうか」
「さーな。けどまぁ。誰だったとしても、俺の身に起こったことは……」
仮にどんな理由だったとしても、ひとつだけ確定していることは召喚者が失敗したということ。
ただの学生である俺を。街ではなく郊外。しかも騎士と賊が戦っている場所に召喚し。命の危機に陥れただけでなく。凶悪な魔法の起動を引き起こす原因となった。
これを一言で表すなら――
「――送信に失敗した。ってところだろーよ」




