第1章 | 夜明けへ、私は夢から目覚める (第六幕)
第六幕:妄執の天使
ディアナの遺した日記帳を読み進めるほどに、私の頭の中にはいくつもの疑問が膨れ上がっていった。それはディアナが悪役令嬢(悪女)だからではない。日記に綴られた彼女の結末が、私の見たあの夢とは決定的に異なっていたからだ。夢の中で私はヒロインを殺害し、この物語の中でディアナはヒロインに殺される。唯一の共通点は、その心臓を貫いた剣の存在だけだった。
『業の剣』――数百人もの聖職者の手によって鍛え上げられ、その刃で心臓を貫かれた者は輪廻の輪から完全に切り離されるという断絶の剣。ディアナの記した物語の中で、この業の剣は、実家の権力を盾に王国を支配しようとした彼女の暴政を止めるためだけに作られたものだった。教会はディアナを「大罪の悪女」と断定し、ルナがその処刑人に選ばれたのだ。
(一体、ルナって誰なの……?)
ディアナの日記には、ルナの素性や出自についての記述が一切なかった。彼女に関する手がかりは皆無だ。ディアナの友人なのか、宿敵なのか、あるいは恋のライバルなのか、それすらも判然としない。可能性を挙げればキリがないけれど、私にできる選択は一つだけ。可能な限り、ルナという存在には近づかないようにしよう。
「あれ……?」
屋敷の中を探索しようと暗い廊下を歩いていると、床に誰かが倒れているのを見つけた。近づいて確認すると、さっきまで私の朝食を運んでくれていたあのメイドだった。体を揺すって起こそうとしてみたけれど、彼女は完全に意識を失っている。何か不吉なことが起きたのではないかと恐ろしくなり、私は床に膝をついて、彼女の手首を掴んで脈拍を確かめた。
――私は、言葉を失った。
彼女の肌に指先を深く押し込んでみる。人間のまっとうな温もりは確かに感じられる。
なのに……ない。
拍動が、ないのだ。
指先に伝わるのは、完全なる、絶対的な静寂。まるで彼女の体内の血液循環が、完全に停止してしまっているかのように、心臓の鼓動が聞こえない。肌に鳥肌が立つのを感じた。しかし、彼女が「死んでしまった」と思ってパニックを起こしかけたその瞬間、メイドの胸がゆっくりと上下していることに気づいた。まるで、ただ深く眠りについているだけのように。そして、かすかにだが、再び彼女の脈拍が指先に伝わり始めた。
「……お仕事の疲れで、気絶しちゃったのかな?」
ぽつりと呟き、彼女を抱きかかえようとしたけれど、今の私の力ではびくともしなかった。
メイドを気絶するまで酷使するなんて、かつてのディアナの暴君ぶりがどれほど猛威を振るっていたのか、想像するだけで恐ろしい。私は、この屋敷で辛い労働環境に耐えてきたであろう彼女に同情せざるを得なかった。もし彼女が仕事を辞めたいと言うのなら、快く受け入れて、たくさんの退職金を包んであげよう。なんなら、もっと条件の良い場所で働けるように推薦状だって書いてあげる。
「おや? ディアナじゃないか」
突然、背後から男の声が私を呼び止めた。
振り返ると、そこにいたのは、まるで恋愛小説の中からそのまま飛び出してきたかのような、背が高く整った容姿の美青年だった。仕立ての良い貴族特有のスーツを着こなす彼の姿は、いかにも凛々しく、堂々としている。世の多くの女性たちが一瞬で目を奪われるような完璧なヴィジュアルだったけれど――正直、私のタイプではなかった。
「……どちら様ですか?」
記憶にない男だ。ディアナの親族のようには見えなかったため、私は警戒の眼差しを向ける。
男の顔に一瞬だけ明確な動揺が走ったが、それはすぐに、いつもの甘い微笑みへと塗り替えられた。
「はは、今度はそういうお遊びかい? 僕だよ、ガブリエル・イングラム。君の恋人だ、ディアナ。いつも通り、君に会いに屋敷へやってきたんだ」
彼は私の前に跪くと、ごく自然に私の手を rational に取りにいった。最初は拒絶しようとしたけれど、その手の触れ方があまりにも優しかったため、思わずそのままにしてしまった。だが、その判断は間違いだった。ガブリエルと名乗るこの男は、信じられないほど恥ずかしい行動に出たのだ。
彼は、私の手首にそっと唇を寄せた。
(え、えええっ……!?)
そのあまりの気恥ずかしさに、止まっていたはずの私の心臓が、まるで一瞬だけ動き出したかのような錯覚さえ覚えた。幸いなことに、ここにいるのは私とガブリエル、そして床に倒れているメイドだけだ。もしこれを通行人のメイドたちにでも見られていたら、私は今すぐ恥ずかしさのあまり二度目の死を迎えていただろう。
手首への口づけを終えると、彼は立ち上がり、床に転がっているメイドへと視線を向けた。「どうしてアイネが倒れているんだい? 彼女が仕事中に気絶するなんて、初めて見たよ」
(このメイド、アイネっていう名前なんだ……)
私は、酷く疲れ切っているように見えるアイネの頭を優しく撫でた。「さぁ……。きっと、無理をしすぎてしまったんだわ。少し彼女の労働時間を減らしてあげる必要があるかもしれないわね」
「床に眠らせておくわけにはいかない。僕が彼女を部屋まで運ぼう」
ガブリエルは手際よくアイネを腕の中に抱き上げた。私がさっき彼女を抱えようとして力尽きていたことに、気づいていたのだろう。
私はガブリエルの後ろについて、屋敷の使用人部屋へと続く長い廊下を歩いた。ガブリエルは、ベラに続いて、私を見ても恐怖の表情を浮かべなかった二人目の人物だった。目の前にいるディアナが、自分の知っている恋人とは似ても似つかない偽物だということに、彼はまだ気づいていないのだろう。だが、もし彼がその事実に気づいたとしても、私に怯えるのではなく、失望し、激怒するはずだ。怯えられるよりは、その方がよっぽどマシだった。
歩きながら、ガブリエルは色々な話をしてくれた。今年の収穫量が予想を遥かに上回ったこと、皇太子がやたらと自分の領地に遊びに来て困っていること、そして海外へ出かけているディアナの両親の近況について。さらに、ここへ来る途中で、他の一族の者たちと一緒に王都へ帰ろうとしていたパスハル叔父様に遭遇したことも話してくれた。
「パスハルに会った時、彼はまるで何かに怯えるようにガタガタ震えていてね、思わずからかってやりたくなったよ。理由を聞いたら、君のことで何か不吉なことを――」
楽しそうに話していたガブリエルが、唐突に言葉を区切った。どうやら、少し口が滑りすぎてしまったらしい。いくらディアナが最愛の恋人だからといって、何でもかんでも話していいわけではない。その先の話に少し好奇心がそそられたけれど、これ以上深く追求しないのが大人のマナーだと私は弁えていた。きっと、一族の秘密か、あるいは私を失望させるような内容だったのだろう。
すらりとした高身長に彫刻のような美貌。てっきり、物語によくある冷徹で無口なキャラクターかと思っていたけれど、実際のガブリエルはひどく気さくで、よく笑う人物だった。ディアナが彼を恋人に選んだ理由も、なんとなく分かる気がする。彼は根っからの「善人」のオーラを纏っていた。だからこそ、物語の結末で、暴走するディアナを止める側に回るというのも、妙に納得がいってしまった。
(もし……私がこれから本当に悪い子になったら、あなたも私を止めるのかしら?)
「……が、ガブリエル様?」
使用人部屋の近くに到着した頃、アイネがようやく意識を取り戻した。彼女は自分が殿方に抱きかかえられていることに気づくと、不敬をお許しくださいと、慌てて降ろしてくれるよう懇願した。何度も深く頭を下げて謝罪する彼女に対し、ガブリエルは「気にする必要はない」と優しく笑い、むしろ彼女の体調を気遣った。
「私はもう大丈夫です。ガブリエル様、お手を煩わせてしまい、本当に申し訳ありません」
「私のせいで倒れたのなら、少しお仕事を減らした方がいいかしら?」私がそう尋ねると、
「お、お嬢様、それだけはどうかご勘弁ください!」アイネは目を輝かせ、信じられないほどの熱量で私を見つめながら叫んだ。「私はお嬢様のために働けて、今これ以上ないほどに幸せなのです! むしろ、一日のすべてをお傍でディアナお嬢様と共に過ごしたいほどです!」
彼女の態度が、朝食の時とはあまりにも劇的に変わりすぎていて、まるで別人のようだった。さっきまでのあの怯えようが、まるで幻だったかのように思えてくる。何か変なものでも食べたのだろうか。先ほどまでは私の顔を直視することすらできなかったというのに、今の彼女の瞳には、狂信的なまでの「恍惚」が満ちていた。
「そ、そう……?」
私はどう反応すべきか分からず、ただ苦笑いを浮かべるしかなかった。本人がどうしても働きたいと言うのなら、その意思を尊重するしかない。けれど、やっぱり無理はしてほしくないので、後でこっそりシフトを減らしてあげることにしよう。
「そういえば、リンネの具合はどうだい?」ガブリエルはポケットから一枚の名刺を取り出し、それをアイネへと差し出した。「この領地に新しく居を構えた高名な医師の知り合いがいてね。一度、彼女を診てもらったらどうだろう」
アイネは静かに首を横に振り、ガブリエルの差し出した名刺を受け取るのを拒んだ。
「お気遣いありがとうございます、ガブリエル様。ですが、その必要はもうございません。ディアナお嬢様のおかげで、リンネはすっかり健康を取り戻し、今朝、ついに自らの足でベッドから起き上がることができたのです」
「……えっ?」
今度は私が、驚きのあまり声を漏らしてしまった。
「私の、世界で一番可愛い妹が救われたのは、偏にディアナお嬢様の慈悲の御心のおかげです。ですから、私はこの命のすべてをお嬢様へと捧げる覚悟にございます」
アイネはそう言うと、私の前に恭しく跪き、深く頭を垂れた。
「我が拝謁と絶対の忠誠は、ただディアナ・ライラ様のためだけに」
「……そうか! それは本当に良かった。リンネの体調が良くなったと聞いて、僕も安心したよ」ガブリエルは驚きながらも、アイネの肩を優しくポンと叩いた。彼がずっと抱えていたらしい懸念が、その表情から綺麗に消え去っていく。「それなら、彼女の回復を祝うために、何かたくさんお祝いの品を買い込まないといけないね」
「ガブリエル様から頂けるお品でしたら、リンネもきっと飛び跳ねて喜びます」アイネは再び深く一礼した。「ありがとうございます、ガブリエル様。どうか、月の偉大なる加護が、常にあなたと共にありますように」




