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第1章 | 夜明けへ、私は夢から目覚める (第五幕)

第五幕:メイドの呟き

アイネの人生において唯一の救いは、大貴族であるライラ家の屋敷でメイドとして働けていることだった。収入は安定しており、仕事も比較的割に合う。真面目に働けば、度々ボーナス(手当)をもらうことだってできた。これさえあれば、病床に伏せる妹の治療費を払い続けることができる。

彼女は、一族の正当な後継者である若き令嬢――ディアナ・ライラの専属メイドだった。もし「ディアナのことを最もよく知る者は誰か」と問われれば、間違いなくアイネがその筆頭に挙がるだろう。主従関係という垣根を越えて、それほどまでに二人の距離は近かった。

しかし今、アイネの目の前にいる存在は、彼女の知るディアナとは完全に「別人」だった。

「アイネ、後でディアナの朝食にお粥を運んでやってくれ」パスハル様は荷物を抱え、酷く狼狽した様子で慌ただしく告げた。「私はこれから、すぐに王都へ戻る」

丸三日の間、生死の音沙汰すら分からなかったディアナの名前を耳にして、アイネの胸は期待に躍った。お嬢様の体調が少しでも早く良くなるように、最高に美味しいお粥を作ろう。そして、いつものようにガブリエル様との恋バナを聞かせてもらおう。アイネはお嬢様の愛らしい笑顔が、あの年頃の少女らしい無邪気な笑い声が、そして恋を語る時に頬を林檎のように染めるあの愛おしい姿が、恋しくてたまらなかったのだ。

――だが、部屋の中にいた令嬢は、ディアナではなかった。

アイネは、部屋に入る前から異変を察知していた。ノックをしただけで、胸を掻きむしられるような強烈な吐き気が襲ってきたのだ。生存本能が「扉を開けるな」と全身の筋肉を硬直させる。しかし、家で病気に苦しんでいる妹の顔が頭をよぎり、アイネは恐怖を振り払って扉を押し開けた。

(えっ……? 何よ、あの塊は……)

ソファに座っていたのは、アイネを笑顔で迎えてくれるはずの気品ある令嬢ではなかった。そこにいたのは、部屋の空気を狂気に染め上げる、悍ましいまでの漆黒のオーラを纏った「何かの影」だった。アイネは恐怖のあまり直視することができず、ただ視線を床に落とすことしかできなかった。

その瞬間、アイネの脳裏に、パスハル様が残した「あの生き物は人間じゃない」という言葉が蘇った。自らの目で見て、確信した。パスハル様が言っていたのは、目の前にいる『この怪物』のことだ。ディアナの肉体を、まるで衣服のように都合よく身にまとっているだけの化け物。アイネは今、その怪物の真ん前に立たされていた。

その存在の前に立つだけで、アイネは自分がひどく矮小な存在に思えた。人間の足元で、気づかれずに踏み潰されるのを待つだけの蟻になったかのような絶望感。あの血塗られた紅い瞳には、温もりも生気も一切宿っていない。アイネごときの存在では、その視界の端に留まることすらおこがましかった。

「ベラを起こしてちょうだい。料理をテーブルに移すのは私がやるから」

お嬢様と同じ声。けれど、喉が干からびているかのように掠れた、酷く冷徹なトーン。

「ベ、ベラ……様、ですか?」

アイネは、ベッドで泥のように眠る少女へ奇妙な視線を向けた。ライラ家に仕えて以来、親族の中に「ベラ」などという名の子供は一人も存在しなかった。それどころか、血統上、ディアナお嬢様がこの一族の中で最年少のはずなのだ。ならば、あの子供は一体何者なのか。

「……かしこまりました、お嬢様」

アイネの目から見て、そのベラと名乗る少女だけが、あの怪物の関心を引いているようだった。彼女を庇護しているのが人間ではないせいか、ベラ自身も普通の少女には見えなかった。少女の周囲の空間に、まるで眠るように閉じられた無数の「瞼」が、びっしりと浮遊していたのだ。アイネがベラに近づいたその瞬間、その内の一つがカッと見開かれ、彼女を鋭く睨みつけた。

『――私を起こすフリをしなさい。恐れることはないわ、アイネ・レイス』

アイネは声の主を探そうとしたが、次の瞬間、空間に浮かぶ無数の瞼が、ディアナと同じ「血の赤」に染まった瞳を一斉に開いた。いくつかが消滅したかと思えば、また新たな目が空間に融解するように生まれていく。万物に凝視されているかのような圧倒的な圧迫感。その視線は、アイネの魂の最奥まで容易に貫いてきた。

「お、お嬢様、起きてください。朝食のご用意ができました……」

生存本能は今すぐここから逃げろと叫んでいたが、アイネの体は完全に恐怖で支配され、指一本動かせなかった。生き延びたいという本能と、病床の妹を救わなければならないという理性が頭の中で激しく衝突し――最終的に、理性が勝った。あの子供が人間であろうが化け物であろうが、今の自分には関係ない。私はただ、妹の薬代を稼ぐために働いているだけなのだから。

アイネが命令に従うと、ベラはまるで普通の愛らしい少女のように目を覚ました。あくびをし、体を伸ばし、眠そうに目をこする。もしその周囲に浮かぶ何百万もの不気味な「目」がなければ、どこにでもいるただの少女と見分けがつかなかっただろう。

ディアナとベラは、まるで神への供物を口にするかのように、淡々と朝食を摂り始めた。食事の最中、ディアナはいくつかの質問を投げかけてきた。パスハル様から事前にお嬢様が「記憶喪失」になったと聞かされていたため、アイネはただ淡々とその怪物の問いに答えた。しかし、ディアナが「婚約者」について尋ねてきた時だけは、アイネの胸に複雑な葛藤が走った。

ディアナお嬢様とガブリエル様は、誰もが羨むお似合いの二人だった。その婚約が政治的な策略に基づくものだったとしても、ディアナお嬢様がガブリエル様に抱いていた恋心だけは、間違いなく本物だった。アイネはこれまで、耳にタコができるほどお嬢様からガブリエル様の惚気話を聞かされてきたのだ。どんな些細な話の時でも、お嬢様は幸せそうに微笑み、愛らしく頬を染めていた。

「そう、ガブリエル……」と、感情の失せた声で呟く目の前の怪物を見て、アイネはこれがすべて悪い夢であればいいのにと、心から願わずにはいられなかった。

(ディアナお嬢様なら、ガブリエル様の話が出ただけであんなに喜び跳ねていたのに……。あなた、一体誰なの……?)

目の前の怪物の平坦で冷ややかな返答は、まるで足元を這い回る虫の名前をただ確認しただけのような、底知れぬ無関心に満ちていた。この怪物は、この世界に1ミリの興味も抱いていない。彼らにとって、この現世のすべては、ただの退屈なしのぎに過ぎないのだろう。

二人が朝食を終えると、アイネは逃げるようにワゴンを押して厨房へと戻った。その途中で、彼女は羊皮紙とペンを手に取る。今度は、彼女の理性が防衛行動を命令していた。退職届を書き、今すぐ執事長に叩きつけてこの屋敷を去ろう。しかし――。

「――そんなことをする必要はないわ。私が、あなたの望みを叶えてあげる」

何もない虚空から、一対の「紅い眼球」がアイネの目の前に現れた。アイネは反射的に数歩後ずさり、その目から距離を取る。恐怖に震えながらも、彼女はワゴンから一本の肉切り包丁を掴み取り、その眼球へと向けた。ディアナの部屋では何もできなかったアイネだったが、今、彼女は必死の勇気を振り絞っていた。

「……あなた、一体何者なの!?」

「無知こそが救いよ。私が何者であるかを知ることよりも、あなたには他に『叶えたい願い』があるのではないかしら? ――たとえば、あなたの妹の病を治すこととか」

リンネ・レイス――アイネの妹であり、世界で唯一の肉親。彼女の身体は、高名な医師であるアディナ様でさえ匙を投げた、原因不明の奇病に侵されていた。アイネはそれを何かの「呪い」ではないかと疑い、教会へも連れて行ったが、神父たちも首を横に振るばかりだった。他に手段はなく、アイネはただ、いつか奇跡が起きることだけを祈り続けていたのだ。

目の前で提示された取引は、あまりにも甘美だった。都合が良すぎるお伽話だ。これまであらゆる手段を尽くして何も変わらなかったというのに、目の前の怪物はその答えを持っていると言わんばかりだった。信じたくはなかった。しかし、リンネを一生あの冷たいベッドの上に縛り付けておきたくもなかった。道徳か、家族か。アイネの選ぶべき答えは、最初から一つしかなかった。

「あ、あなたに……私のリンネの病気が、治せるの……?」

この瞬間、アイネは妹の命を救うためなら、自らの人間性をドブに捨てる覚悟を決めた。

「彼女が救われるなら、私は何だってするわ……! お願い、リンネを助けて……っ!」

空間に浮かぶ紅い眼球が、満足げに、ゆっくりと瞬きをした。その眼差しには、静かな愉悦が満ちていた。

ドクン……ッ!

突如、アイネの心臓が不自然に拍動を停止した。脳への血液の供給が途絶え、猛烈な目眩が彼女を襲う。全身の力が急激に失われ、彼女はその場にガクリと膝をついた。必死に呼吸をしようとするが、肺が酸素を拒絶しているかのように膨らまない。視界が急速にセピア色に染まり、意識が遠のいていく。

そして、彼女の意識が完全に闇へと沈む直前、彼女の視界に、一匹の「ウサギ」が姿を現した。

『――あなたの願いは受理された。契約は、これより成立する』

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