誰もいない家
言われた言葉が頭の中で警鐘を鳴らす。
俺は一体何をしていたのか。
18年もの間、長年連れ添った妻と家族を捨てて、若い女に夢中になった。
その結末が、コレだと?
「あら、父さん。今頃何しにきたの?」
その足で娘の家に向かったのだが。玄関の前で、娘の日菜子に冷たく言い放された。
離婚したことを知っている目だ。
「私の住所、覚えていただけ偉いとは思うけど。ねえ、父さん、孫の名前とか、私の旦那の名前とか覚えてる?私の誕生日は?私が今どこで働いてるか、知ってる?」
俺は何も言い返せなかった。誕生日も、孫の名前も、結婚した年すらも覚えていない。娘の年齢すらもあやふやだ。31か、2か?30歳を超えてるとは思うんだが。
「お、お父さんはな、仕事をして家庭を支えていたんだ…。一生懸命、働いて金稼いで、お前たちのために、」
「ああ、愛人も囲っていたのよね?二重の結婚生活って大変だった?」
知られてた。恵理子か。まあ、当然だ。何ヶ月も前に離婚したんだから当然、子供たちも知っているはずで。
「い、いや、子供は。きららの子供は、俺の子じゃないんだ!俺は騙されてだな!」
「私ね、今弁護士してるのよ」
ヒュッと息が詰まった。
「べ、弁護士、か。そうか、それは、頼もしいな」
「そう、民事、特に家族法に強いのよ私。家族法ってわかる?離婚や男女問題に特化してるってこと」
「……そ、そうか」
「私今年で34歳になるでしょ、だけど仕事が忙しくてね。ああ、悠太の誕生日は先月15日。6歳になったのよ。招待したけど母さんしか来なかったわね」
「それは、その、すまなかったな、あー……出張だったんだ、そう。それで、その母さんなんだが電話も繋がらなくて、その。どこにいるか、知っているか?」
「へえ。定年退職した後で、出張があったのね?新しい仕事?ま、私には関係ないけど。母さんは今旅行中よ。知ってるでしょ?母さん、ずっと旅行に行きたかったの。日帰りでもよかったの。日光でも、箱根でも。37年間の結婚生活の中でどれだけ父さんは、母さんに寄り添ってあげたのかしら?」
37年。
あいつと結婚して、そんなに経ってたのか。
あいつが18の時に見初めて、二十歳で結婚した。俺が8つも上だったから、男の甲斐性を見せたくて、仕事も辞めさせた。それから、あっという間に37年も経ってしまった。
「断捨離の旅に出たんですって。しがらみを全部切り離すための旅よ。自分自身を見つける旅。母さん、ようやく好きなことができるようになったの。もうバカみたいな理由で殴られることも無くなって、ようやくトラウマも落ち着いたから。
だから父さん、もう関わならないでくれるかしら?正直、子供の教育にも良くないもの。女にだらしないDV男がおじいちゃんだなんて、子供になんて言ったらいいのかわからないし、それが普通と思われるのも嫌なのよ。本当なら、訴えてもよかった。でも母さんが表沙汰にしたくないっていうから黙ってたの。私、父さんが母さんに暴力振るった日のこと、全部証拠として残しているから」
息を呑んだ。
これまで生活費を出してやったのは俺だ。お前たちが何不自由なく大学まで行けたのだって、俺が働いてきたから。
そう怒鳴ってやりたかったが、それを言えば、決定的に敵に回すような気がして、俺は逃げ帰った。
子供が生まれた時は、俺は恵理子になんと言ったか。よくやった?頑張ったな?ありがとう、と言っただろうか。覚えていない。忙しかった。仕事が楽しかった。接待が、株価の変動が、バブルの崩壊が。色々、家庭を省みる機会が、なかった。
長男は、名前すら朧げだ。確か、恵理子の父親の名前の一部をとって……渉、そうだ、渉だ。結婚式で、名前をど忘れして誤魔化したのは覚えてる。
あれが生まれた時は、課長になるか、ならないかの瀬戸際で残業続きだった。海外出張も確か重なっていたはずだ。恵理子があれこれと妊娠のことで電話をかけてくるのが煩わしくて、カッとして叩いたことがあった。仕事の邪魔をするな、と。
それから、そうだ。長男は夜泣きがひどくて、恵理子に黙らせろと怒鳴りつけたこともあった。クリスタル製の灰皿を投げたこともあった。恵理子の額がパックリと割れて血だらけになって狼狽えた。
誰がお前たちの面倒を見てやってると思っているんだと。俺が必死に働いた金を使うだけの役立たず。穀潰しだと引っ叩いた時、だったら自分も働くと言った恵理子に、俺はカッとなって、起き上がれないほどの体罰を与えた。俺が甲斐性なしだと言われた気がして。泣き叫ぶ子供の声が癇に障って、お前の教育が悪いからだと、ベルトも使って。
女は黙って家庭を守っていればいい。男を立てろと言ったんだった。
あれから恵理子から笑顔が消えた。顔色を見るようになって、俯くことが多くなった。好きな時に犯して、気に入らなければ手をあげて。御免なさいと謝る恵理子に満足した。
すまなかったと次の日に謝れば、いつも許してくれたから、俺は何度も繰り返した。服従させることに征服感を覚えた。俺がいなければ、こいつらは生きていけないのだから。
だがそのうち、子供が大きくなって、俺を親の仇でも見るような目になった。
恵理子を守るように立ちはだかった。
支配者の地位が息子に移った。
渉は俺よりも強い存在に変わったと、肉体的に敵わないことを知った。だから俺は、家に帰るのが嫌になったんだ。
それで。……それで?
それで、きららに出会ったんだ。俺が求めていたのは、こういう安らぎの時間だった。
若くて美人な女と、仲良く食卓を囲む温かい家庭。
渉には、会いにいけない。あいつは俺と敵対している。そういう目で俺を見る。何をされるか、わかったもんじゃない。
俺は、しばらく帰っていなかった懐かしの我が家へと戻った。レターボックスに何通かの催促状が入っていたのをまとめてカバンに突っ込んだ。
俺の名義で買った家だ。ここは俺の家だ。恵理子が帰ってきたところで、絶対に敷居は跨がせん。俺の働いた金を奪った、がめつい女め。最後の最後で、化けの皮を剥がした。別れて清清した。
ドアを開けると、整然とした人の匂いのしない冷たさが待っていた。
冷蔵庫、洗濯機、大きな家具は全て残っていた。だが食器棚の中に食器はない。シンクに俺の湯呑みと茶碗がふせてあった。本棚も空っぽで、ソファのクッションも残していなかった。
アルバムも、写真も、洗面所の歯ブラシも。
いや、俺の分は残してあった。
歯ブラシが一本。シェーバーが一つ。
けれど、タオルもシーツも何もかもが捨てられていた。思い出のひとつも残っていない部屋。よく見ればかなり古ぼけていて、築40年ほどの家だけが俺に残された。
ここで。
俺たちは暮らしていたはずなのに。
いつからか、俺だけが。
俺だけが、この世界から弾き出されて、きららの住む異世界に飛び込んだ。
馴染むはずのない、異なる、世界へと。
そして今、誰も彼もがここから出ていき、俺だけが、残された。
——この家は、俺のものだったはずなのに。
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本日はここまで。
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