振り向いてはいけなかった
朝早くに宿を出たはいいけど、ちょっと道を間違えて、迂回しながらようやく中山道に戻って、碓氷峠をひたすら登って見つけた石碑群。
ああ、これが有名な…、と一息ついたところでまたしてもあの黒猫が出没した。
いや、同じ猫かどうかはわからないけれど、「にゃあん」と甘えた声は聞き覚えがある。
「とはいえ、埼玉からいくらなんでも、まさか、ねえ?」
日本の怪談には常に出てくる黒猫がふと頭の中をよぎり、ブルリと体を震わせた。念の為に持っていたお昼ようのおにぎり。今日のはおかかとツナマヨ。粗塩をちょっぴり入れた水筒の水もあるけど、これを目指してついてきたのだろうか。
そして私の手には、猫缶。
――だって、なんとなく。
こんなことになるかもしれないなんて、ふと魔が差したのよ。
「舌びらめの猫缶……食べる?」
缶を開けて差し出すと、喜び勇んで餌に飛びついてきた。これはやっぱりあの黒猫か。
「猫ちゃん埼玉からついてきたの?」
「うぐぶにゅにゃあん」
返事ではないとわかっているものの、食べながら鳴くので声がくぐもって可愛い。そして猫缶をペロリと平らげると、顔を洗い、そしてまたしてもついてこいと手招きをされた。
「やっぱり!お前こないだの猫ちゃんね?」
嫌な顔をすると、耳がぺたんと下がったので、理解しているんだと気がつく。うるうるの瞳で見上げられると無碍にも出来ず、仕方ないわねえとついていく。
人間みたいな猫だわ。
どんどん道なき道を上がっていくので、大丈夫かしらと思いつつも体は軽い。体力がついてきたのだろうと満足げに頷く。そんな呑気なことを言っている場合ではなかったのに。
黒猫が案内してくれた場所は、ちょっと藪が深くて歩きづらい。
そこで諦めて引き返せばよかったのに、好奇心に誘われて、猫の後ろを歩いていくと、祠があった。
「こんなところに祠……」
ぴゅうと風が吹き、なぜか生暖かい風が野生の匂いを運んでくる。
「なんか……たぬきとか、狐とか、いそうな感じ。え、この辺って熊はいないよね?」
黒猫を見ると平然とした顔で歩いていくので、多分大丈夫なんだと思うけど。黒猫は祠の裏側に周りにゃあと鳴いた。裏に回ると、祠に蜘蛛の巣がびっしりと張り付いている。その蜘蛛の糸は後ろに生えている枯れ木に繋がっていた。
「ええ~…これ、掃除しろとか言わないでしょうね?」
「にゃあん」
ちょっともう勘弁してほしいわー。
でもね、祠でしょう?こういうのって色々曰くがあるじゃないの。神様とか信じないけど、ひょっとしてとか、万が一とか、ねえ?あるじゃない?
日本人は迷信深いのよ。見捨てて恨まれたりとかされたら嫌じゃない?っていうか、なんかもう私、この黒猫にストーキングされてる気がするんだけど、これでこの黒猫が何かの怨霊とかだったらどうするんだって話なんだけど。
もしかして、憑かれてる?
「まあ、掃除だけで済むんなら、別にいいけど」
なんか前回のスッキリした感じも正直助かったし、ご利益があるのかもしれないし。同じ神様だったら御礼返しって感じかしら。
そうそう、断捨離の旅だもの。こう、色々、世俗の穢れを落とすという意味でも。
善行には徳がつくと信じて。
私はまだ葉っぱがついたまま枯れてしまった枝や、箒になりそうな枝を集めて一つにまとめ、コンビニの袋で持ち手を作ると、ざっと祠の壁を一掃した。蜘蛛の巣は絡めとるようにすると綺麗になる。
ものの10分ほどで祠の背面は綺麗になった。
ついでだからと周囲もざっとはたいて、屋根の部分の落ち葉も落とすと、掌サイズの鈴が見つかったのだ。
「ああ、これ……元々祠についていたのかな。ここに置いておこう」
祠の扉の前に鈴を置くと、猫缶を綺麗に水で洗い、そこに水筒から水を入れた。入れ物がないけど、粗塩も盛っておく。お供えはおやつのリンゴで。
「これ、野生の動物に食べられちゃうかしら……。ゴミ残して!なんて怒られませんように」
そしてパンパンと手を叩き、この旅路で怪我や病気をしませんように、と祈っておく。あとついでに、腹の贅肉が落ちますように、も。
取り払った蜘蛛の巣を絡めた枝は、まるで大きな綿飴のようになっていた。燃やすわけにはいかないので、ちょっと離れた岩陰に捨てておく。
もちろんコンビニの袋は回収だ。
30分もかからず綺麗になったので、元きた道を戻ろうとしたところで、目の前に人がいてギョッとする。こっちを凝視している外人さんだった。なんていうか、インディアナ・ジョーンズのような、考古学者と冒険者が合わさったような格好で、旅慣れてると言った風貌だ。腰に下げてるのは鞭かしら。山登り用のロープよね。
……中山道で、ここまでする?
「こ、こんにちは~。いいお天気ですね」
相手は目を見開いたまま、凝視してきたのでちょっと怖くなって、愛想笑いで逃げ出した。体の大きい人って無言で立って睨まれると威圧感あるわ。こわ~。言葉が通じなかったのかも。
と、そこで振り向いてはいけなかったのだ。
一度目の時は振り向かないように引き返したのに、今回はすっかり忘れてた。チラッと振り返ると、そこは先ほど目の前にあった祠ではなく、古びたカテドラルのような建物があって、周りはジャングルのような密林地帯だったのだ。
赤と黒の、人より大きな蜘蛛。蜘蛛の何個もある目が、一斉に私を見た。
口の中でモチャモチャと何かが糸を引く。
「ひぇっ!?」
私は腰が抜けて、言葉にならない言葉で這いずって逃げようとしたのだけど、情けないことに意識が遠のいて。
ちりん、と鈴が鳴った気がした。
目を覚ますと、中山道から少し外れた獣道で横たわっていたのである。
「ゆ、夢…?え、やだわ。私疲れてるのかしら……」
黒猫の姿はもうない。でも手元には鈴が残った。ということは、あの祠は夢ではなかった。巨大な蜘蛛は夢だったに違いない。蜘蛛の巣を払ったからって、あんなものを想像するなんて。
ブルリ、と体が震える。
「戻って確かめる勇気はないけど」
私は震えの残る手で鈴を拾い上げ、バックパックに仕舞い込み、逃げるようにその場を離れたのだった。




