エリクサーグラスと聖獣の森
その男は、森の奥深くで今にも息絶えようとしていた。
妹を助けるため、薬草を取りにこんな山奥にまで入り込み、うっかりダーツスネークに刺されたのである。ダーツスネークは蛇のくせに空を飛ぶ。というより、木から木へと飛び移る習性のあるBランクの魔物だ。この森では要注意の魔物なのだが、まさに男はその毒に倒れたのである。気配に気づき、避けたのだがそれが手の甲を掠めた。すぐさま持っていたナイフで殺したものの、毒が回り始め岩陰で体を横たえた。
「ミユ、ごめん。薬は、渡せないかもしれない……。不甲斐ない兄ちゃんを、許し…ん?」
目を閉じようとしたその時、小雨が男を濡らした。
「雨?」
視線を上げると光に包まれた人影が、男に雨を降らしていた。その雨は岩を伝い、男の毒に侵された傷口に染み込んだ。
「こ、これは」
変色していた手がみるみるうちに戻り、傷口がゆっくりと塞がれていく。その水がこぼれ落ちた場所からは、次々と草が生え始め、それが男が求めていた薬草だと気がついた。
「エリクサーグラス……ッ!?」
驚愕に飛び上がり目を見開いていると、パン、パン、と空気が弾けるような音が聞こえ、光が次第に弱まっていく。声も上げられず黙って見ているうちに光は消え、あたりに静寂が戻ってきた。
「……今のは、神?精霊?」
「にゃあん」
はっとして、声のする方を警戒すると、木の枝の上に森の獣がいた。真っ黒な猫のようだが、黄金に輝く瞳。間違いなくあれは。
「聖獣様!」
男は慌てて頭を下げ、感謝の念を唱えた。急いでエリクサーグラスを刈り小瓶に詰め込む。聖獣様が導いてくださったのは、森の精霊に違いない、と確信する。
ここは聖獣に守られた森だとして、どの国にも属していない不可侵の地域だ。悪さをすれば、外に出ることは叶わず、本心から探し求める物は見つかるとひそかに有名な聖域だった。当然のように神殿が見張ってはいるものの、男のように縋り付く者は後を絶たない。
こうして男は故郷に戻り、妹は命を取り留めた。
よもやペットボトルの水が、そんな大層なことになっていようとは、恵理子は知る由もない。
中山道を歩き始めて、早8日。
最初の頃の筋肉痛は今や影も形もなく、心なしか腹のたるんだ肉も引き締まってきた。パッツンパッツンだったジーパンもちょっとゆとりが出て、歩いている最中に密かにボタンを外すことも無くなった。
「有酸素運動って大事よね、やっぱり」
本日は碓氷峠に挑戦だ。なんでも中山道の難所の一つで、距離はないけど坂がきついのだとか。でもそこを越えれば軽井沢。リッチピーポーの避暑地として有名だ。一度は行ってみたかった場所でもある。本当ならそこでテニスでもしてみたかったが、あいにく恵理子は運動音痴で、テニスのラケットは布団叩きにしかならない。
テニスは諦めて、美味しいワインでもいただこう。
昨夜の宿で3人組の女性トラベラーと知り合い、色々と教えてもらった。彼女らは京都から東京に向かっているのだとか。途中途中で休みを入れて、もうかれこれ1ヶ月ほど旅をしているという、羨ましい限りの70代。ジーパンで山登りはダメよと叱られたけど。だってハイキングパンツお高いんだもん。二サイズほど下げてから考えるわ。
旅行代理店の人見さんの言うところの「今からでも遅くない」を体現したような、女3人姦し娘たちだった。
チリン、チリンと風鈴のような音に目が覚める。
「あら、やだいつの間に……。私寝てた?」
周りを見渡しても誰もいない。あんなに人がいたのに、そんなに長いこと休んでたかしら、と天を見上げる。曇り空だけど、まだ日は高そうだ。
ふと足元を見ると、鈴が転がっていた。
「鈴……」
そして徐々に思い出してきた。
つい先ほど、なにが起こったのか。




