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最終話。
京都駅のホームは、思っていたよりも静かだった。
「……終わっちゃいましたね」
隣で、一之瀬さんがぽつりと呟く。
「そうね。ようやく達成したって感じ」
私は笑った。
「よくやりました。中山道、532kmだったかな?」
「そうね。途中で迷子になったりして、もっと歩いてるかもしれないけど」
くすくすと笑う。
逢坂の関で出会ってから、一之瀬さんは病的に痩せた私を見て、ものすごく心配してくれた。病院に行った方が、とずっと言い続けていたから、一緒に歩かなくてもいいとまで言って、黙らせた。その代わり、最後まで三食きっちり食べさせられて、42キロまで減っていた体重はあっという間に46キロまで増えた。
黒猫は、あれから見ていない。
一之瀬さんに言わせると、飼い主が見つかったから家に帰ったんだよ、きっと。だそうだ。旅のお供をしていたのは、私の方だったのかもしれない。
でも、なんとなく。
あの子は、あちらの世界の子なんじゃないかと思っている。
写真を現像したのなら見せて、と強請ったのだけど、お祓いをするために全部焼いてしまってね、とガックリしていた。なんだか、申し訳ない。カメラも全て奉納してしまったらしい。どれだけの怪奇現象が、とびっくりしたけれど、実際、体験しているので、追究はしなかった。
あんな体験はカメラに残したくないものね。また引っ張られて、神隠しなんて笑えないわ。骸骨に追いかけられるのは、もう懲り懲り。
中山道歩き、約1カ月。
長いと思っていた道も、終わってみればあっけない。けれど、足の裏に残る感覚だけが、確かにここまで歩いてきた証のようだった。
「体、大丈夫ですか?」
「うん。さすがにちょっと軽くなりすぎたけど。ここ数日、一之瀬さんが餌付けしてくれたから、戻っちゃったわ」
くすりと笑う。
「大丈夫。ちゃんと食べて、ちゃんと生きるわ。祖母業も忙しくなりそうだし」
その言葉に、一之瀬さんは少しだけ安心したように目元を緩めた。
「目的は……達成できましたか?」
自分を見つめ直す旅。断捨離の旅。
いろいろ理由をつけた旅だったけど、結局のところ捨てたのは自分の体重ぐらいかしらね。ああ、でも。老後の心配とか、しがらみとか。今はまだ、肩に乗せなくてもいいものも降ろせたのかもしれないわ。
「そうねぇ。過去は精算できたと思うの。でも人間って、一人で生きていけないじゃない?一之瀬さんに出会って、それは十二分に実感できたわ」
「はは。僕も、思わぬ形で過去を整理できましたよ。カメラと一緒にね」
二人で笑う。
こんな些細な笑いも嬉しい。
生きていると実感できる。泣いて笑って、怒って食べて。それが普通だと思えるようになった。
それから、少しだけ視線を逸らして。新幹線のホームにアナウンスが入るのを聞き流す。
「あの」
珍しく、一之瀬さんが言葉を探すように間を空ける。
「今度……その、野鳥。観に行きませんか」
私は目を瞬かせた。なんてベタなお誘い。
スマートな一之瀬さんらしくもなく。
「ほら、前に話してたじゃないですか。オオルリとか、キビタキとかね。ちゃんと、ゆっくり」
少しだけ、早口だった。
「……お誘いしても、いいですか」
視線を泳がせる一之瀬さんに、少しだけ期待を寄せる。
「ええ、是非」
一之瀬さんが、ほっとしたように肩の力を抜く。
「じゃあ……今度電話、します」
「うん。ちゃんと電源入れて待ってるわ」
途切れがちな、短い会話。
「あと、私ね」
言いかけた時、ホームに、新幹線が滑り込んでくる。風が巻き起こり、二人の間をすり抜けた。
「いつか、熊野古道に挑戦しようと思うんだけど」
私はバッグを持ち直す。ゲートが開いた。
「一緒に行きましょう」
すかさず、一之瀬さんが言った。少しだけ強く。
「ええ、是非」
私は笑って頷いた。
ドアが開いて、新幹線に乗り込んで。指定の席に座ると、一之瀬さんが手を振ったので、私も、同じように手を振った。
「またね」
というと、電話しますとジェスチャーで返してきた。すぐに電源を入れて、ポケットにしまう。
私のケータイには、一之瀬さんとお揃いの、諏訪大社の福鈴ストラップがつけてある。色違いで、可愛い。まるで猫の首につけられた鈴のように、お互いを繋ぐ鈴。
扉が閉まってゆっくりと、景色が動き出す。
——歩いた道も、出会った人も、あっという間に後ろへ流れていく。
恵理子は、前を向いた。
「大丈夫。私は前へ進んでる」
37年間住み慣れた昔の我が家。3LDKのマンションは、恵理子が最後に見た時よりも色褪せて見えた。壁の端が小さく欠け、キッチンの窓枠には蜘蛛の巣が張っている。
「……お久しぶりね、久志さん」
ドアを開けた久志は、しばらく何も言わなかった。
ただ、じっと恵理子を見ている。何を考えているかはわからないけれど、もう自分が管理していた女ではないことは、理解したようだった。
痩せたな、と恵理子は思う。
あんなに怖かった人なのに、やけに小さく、老けて見えた。
「……元気そうだな」
「ええ。見ての通り」
気力なく生きてきた37年間より、この数ヶ月の人生の方がより充実していた。あんな不思議な体験はもうしたくないけど。
「……上がるか?」
一瞬の間。
恵理子は、ゆるく首を振った。
「いいわ。長くならないから」
その一言で、久志はむっと口を閉じた。
「日菜子ね、二人目が出来たんだって」
「……そうか」
一瞬、誰の話をしているのかわからなかった様な顔をして、すぐに驚きと、戸惑いと、少しの喜びが混ざった顔に変わる。
目を伏せて、こほん、と喉を整える。ああ、不器用な人だったわね、そういえば、と恵理子は遠い過去を思い出す。あの頃は……、と考え始めて思考を止める。
もう、終わったことだ。
「男か、女か」
「まだわかんないわよ。3ヶ月ですって」
恵理子は笑う。
そして、まっすぐに久志を見た。
「お父さんになるのは、失敗したけど」
ぴくり、と久志の顎がわずかに締まる。
「頑張れば、おじいちゃんには、なれるかもしれないわよ」
静かな声だった。
責めるでも、慰めるでもなく。ただ、事実を置くように。ほんの少しだけ希望を見せるように。
久志は何も言わない。
それも選択のひとつだろう。
「……じゃあ、私はこれで」
恵理子は背を向けた。
「恵理子」
慌てて呼び止める声。恵理子は振り向かないで動きを止める。
久志は、その背に向かって何かを言いかけて。
——やめた。
「……いや、また……」
そのまま、視線を落とす。恵理子は、ほんの少しだけ顔を向け、微笑んだ。
「怪我……お大事にね。体に気をつけて、元気で。……さようなら」
それだけ言い残して、歩き出す。前を向き、振り返らずに。
築四十年のマンション。
静まり返った部屋に、鍵の音が響く。
久志は、ゆっくりと中に入った。
ペタペタと、素足で歩く床板に見せかけたラミネートのフロアの上。繋ぎの部分が少し浮き上がっているのを視線で追う。そこにも、自分の気づかなかった歴史が残っていた。
誰もいない部屋。自分一人の家。
当たり前なのに、妙に広く感じる。
ダイニングテーブルに、手を滑らせた。コーヒーカップの円い染み跡。皿を引いた細かい傷跡。縁に残る何かをぶつけたへこみ。一人で使うには、大きい六人掛けの机。
椅子の背もたれの部分のペイントが少し剥がれている。実家の親が使っていたのをもらった、中古のテーブルだ。この家でで37年、実家で10年くらい使っていたのだと思う。
一度椅子は張り替えたが、少しガタが来ている。床が平行でないのかもしれない。
家族4人が使っていた歴史が幻のように浮かび、消えた。
恵理子を見ても、何も感じなかった。
――いや。綺麗な女だと思った。俯きがちだった顔が、真っ直ぐ自分を見た。出会った時と同じ、生命力のある力強い視線。
――ああ、そうだ。俺はあの目が好きだった。未来を見据えた目が。
37年の歴史を、あいつは過去に置き去りにした。
――たった、数ヶ月。そのほんの数ヶ月で、俺は過去にされたのだと、思い知らされた。
やがて、久志は冷蔵庫を開けて、中をのぞく。コンビニで買った惣菜の食べ残しと牛乳のパック、缶ビールが3本だけ。
缶ビールを1本取り出して、開ける。
プシュ、と軽い音。
それだけが、やけに大きく響いた。
居間に向かって、畳に座る。
ちゃぶ台には読みかけの新聞と、先ほどまで飲んでいた湯飲みが、心許なげに鎮座していた。
テレビでは、何かのバラエティ番組が放送されている。作られた笑い声が虚しく響いた。
携帯に目がいった。
画面は、暗いまま。
手を伸ばしかけて、やめた。
ビールを一口飲む。
苦い。
突然、怒りが湧き上がって、激情のまま湯呑みをテレビに投げつけた。
がちゃん、と湯呑みが割れてテレビ画面にも傷がついた。それでも、テレビの中の乾いた笑い声は止まらない。残っていたお茶が画面を伝い、畳にシミを作るのを黙って見ていた。
もう、何も。
胸の中には、何も残っていなかった。
電車の窓に、夜の景色が流れていく。実家に着いたら、まずは姪っ子にお祝いの言葉を贈らなくては。それから……。
恵理子は、静かに目を閉じた。
ふと。
どこかで、鈴の音がした気がして、目を開ける。
——気のせいだ。
窓の外には、何もない。ただ、暗闇が広がっているだけ。民家の灯が田んぼの向こうに見えては消える。がたん、ごとんと線路を走る電車の音が、ゆりかごのように体を揺する。
口元に、ほんの少しだけ笑みが浮かんだ。
「……次は、どこに行こうかしら」
小さく呟く。
電車は、速度を上げる。
前へ。
ただ、前へ。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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あと一つ番外編がこの後に続きます。




