終焉の日
勇者も、英雄も、人々も——
誰一人として声を発せず、黒々と聳え立つオベリスクを見上げていた。
数年前、世界は生まれ変わった。
——そう呼ばれる“天地改革”によって。
深淵の女神、聖女、戦乙女。
その名の呼び方は変われども、おそらくどれも同じ人物を指している。鈴の音と共に現れ、荒々しくも魔を祓った偉大なる存在。目に映ることは少なく、ただ気配でその存在を知らしめる。
その話は、はるか昔。長く足元まで伸びた黒髪と、黒い瞳の女性像を思い起こさせた。
神殿の石碑に残る、深淵の女神の代名詞となった『異世界から来た聖女』については、誰もが知っていると思っていた。
異世界から現れた美しい女性。
神の花嫁として現れたにも関わらず、騎士を侍らせ国を乱し、神の怒りを買い、淫府に堕ちた聖女。それ以来、黒髪と黒目は魔性として忌み嫌われる存在となった。
滅びてしまった神殿の石碑には、こう書かれていた。
深淵の奥を覗く者
神の慈悲を乞い
畏怖するが良い
死は誰にも平等にやってくる
恐れを知らぬもの
穢れを纏うもの
その身は劫火に焼かれ
無に帰すと知るが良い
それは、堕ちた聖女のことを戒めとして残したものと思われていた。
だが、数年前の天地改革異変の後、疑いの声が上がり始めた。真実を見極めよと神のお告げを受けた、という神官達が各地で滅びた神殿を訪れ、瓦礫を掘り起こし、古代文献を探し始めた。
そこで分かったのは、聖女が欲したものはただ一つ、ある神殿騎士のみだったということだ。当時、聖女の美貌に囚われた男達が彼女を欲しがり、こぞって何もかもを差し出したが、聖女は何一つとして受け取らなかった。
ただ一つ。
ただ一人の騎士の愛以外は、何もいらぬと突き返したのだという。
だとすると、碑文の言葉は誰に向けたものか、という話になる。そして今回の天地改革に深く関わっていたであろう人物が、黒髪の黒目の、女性。
その姿を目にした者は少ないが。
少なくとも勇者は実際に出会っていた。辺境の戦士も、そうだ。小柄な、冒険者風の女だった。黒髪は短く、扁桃型の瞳は光を通さない闇色。
あるいは、虚無。
多くの者が、エルフの里ティンタジェン聖域の崩壊と再生を目にしている。だが、エルフ達は恐れて、その日の事を口にも出さない。
まだ若いエルフの王が、震えながら目を伏せる。
「淘汰されたくなくば、詮索はするな」
触れてはいけない神域というものがあるのだと、口を固く閉ざした。
終焉の日。
光が全土を覆い、血の海が瘴気を呑み込み、木々が一斉に芽吹いて花をつけ、実を結び、そして一瞬のうちに散りさった。死者の魂が光の柱となって天に還り、世界中の水という水が全て血の色に変わった。人々は恐れ、慄き、そして祈った。
終焉の女神と聖なる一角獣によって、この世界は救われた、とまことしやかに語られた。
同日に帝国の王が姿を消した、という噂も耳に届く。
その昔。聖女が現れたのと同じ頃、当時の人々は神々の国として帝国を恐れていた。帝国が攻め込んだ国は、悉く呑み込まれ属国へと成り下がり。逆らった者は、王であれ、女子供であれ、貴賎を問わず残虐に殺したという残虐王。
聖女を手に入れた不死の王。
聖女の死と共に姿を消したという。その王が、帝国が崩壊した後も、まだ生きていたというのだから、驚きを隠せない。
すでに掲げる王冠も意味をなさない物となってはいたが、運命のあの日。
どこからともなく、王が現れたという。
砂漠と化した古帝国の皇城遺跡のある一画で、ふらりと現れた帝王がとうとう膝をついた。そして天を仰ぎ、「すまなかった」と一言残し、砂となって消えた。その時、聖女の黒き聖獣が現れ、王を連れ去ったのを見たという人もいたらしい。
どこまで真実か嘘かはわからない。
帝国の王を神だと信じる民が、世界のために王自身を贄として差し出し世界を守った英雄として、1年がかりで石碑を建設した。
そしてそのオベリスクに、石碑文を取り付けたその日の夜。
世界中の人々が同じ夢を見た。
女神が怒っていた。瞳のない深淵の瞳から血の涙を流し、全てが嘘っぱちだと。
『悔い改めなさい!自分達の非道を認めなさい!正しい歴史を学びなさい!』と。
世界は再び狂乱した。
——神がお怒りになった!
——何が原因だ!
——オベリスクだ!
——碑文に問題があるに違いない!
そして今。
勇者とその仲間、英雄と呼ばれた軍師と騎士達がオベリスク前に集まった。そこへ遅れて神官も集まってきた。
「お告げがありました」
「ああ。知ってる」
「ここに集まった者は皆、同じ夢を見た者達だ」
「……神が、お怒りです」
「原因は、おそらくこの石碑だと思う」
言葉少なめに神官が勇者達と話をし、神妙に頷いた。聳え立つオベリスクに近付き、震える声で碑文を読み上げる。それは、最初に書かれていた王を褒め称える文とは異なっていた。
「う、嘘だ!わしはそんな言葉を彫ってはおらん!」
静まり返った群衆の中で一人の老人が駆け寄ってきた。碑文を彫った彫り師のようだ。
「わしは、偉大なる帝王を讃えるための文を彫った!誰かがすり替えたのに違いない!」
帝国人を祖に持つものは多い。自分の祖先に誇りを持っていたのだろうが、誰も老人に同意しようとはしない。夢のインパクトが強いせいだ。神の怒りには触れたくない、と誰もが思っているのがありありと窺えた。
「其方は神の言葉を聞いたか」
「き、聞いてない!そんなものは信じられん!皆が皆、騙されているに違いない!な、何か魔術的なもので……っ」
そう言い募った老人の声をかき消すように、猫の鳴き声が空気を裂いた。
「にゃあん」
ぎくっと飛び上がり、振り返った老人が見たものは。
——漆黒の闇が口を開けたところで、意識が途絶えた。
その老人が、慌てたように跳び上がり振り返ったのを、皆が見ていた。 一体何に驚いたのか、誰にもわからない。だが、老人は驚いて跳び上がり、振り返って青ざめた。
そして言葉を発する前に砂のように砕けて崩れ落ちてしまったのだ。誰も身動きが取れなかった。
老人の影の中からぬらりと現れた黒猫の姿を、勇者だけが見ていた。
ずっと陰に潜んでいたかのように、老人の足元から絡みつき、顔の辺りに這い上がる。そして、老人の顔からずるりと、白っぽい何かが引き摺り出され、パクリ、と。
黒猫の喉が上下する。
そして勇者と目が合った。
金色の丸い瞳が勇者を覗き込む。
口元が何かを呟くが、勇者の耳には入ってこない。
黒猫は諦めたように、視線を逸らした。
ペロリと赤い舌が口の周りを舐め、群衆に向かって歩き出す。
黒い影が、かつての聖女の髪のように、長く長く伸びて広がっていく。
あの猫は危険だ、と総毛立つ。
逃げろ、逃げろと全身が警告音を鳴らす。
あれは、あの時の女神の気配と同じ。
触れてはいけないものだ。
この世ならざるもの。
あちらこちらで、悲鳴が上がった。老人と同じように、砂になって消える人が続出していく。
——裁きの時間に入ったのだ。
勇者は、動けなかった。
黒猫が人々を蹂躙するのを肌で感じながらも、恐怖に駆られて金縛りにあったかのように。
見上げるオベリスクには、こう刻まれていた。
天は堕ちて 地も沈む
時は満ちて 闇に染まる
罪を認め 悔い改めよ
浄化の時は 始まった
真実を学び 虚を恐れよ
真実を騙るもの 闇に堕ちん
終焉は終わったのか。
それともこれからが、本当の始まりなのか。
その答えを、勇者は持ち合わせていないーー。
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