こんな世界はいらない
本日二本目の投稿です。
黒猫は思い出していた。
かつて、主人と呼んだ娘のことを。
突然、別世界に引き摺り込まれ、一人と一匹、この世界に落とされたことを。
優しい娘だった。甘い声で「クロ」と呼んだ。優しい手つきで、黒猫の喉を撫でた。ネズミを獲ると褒められて、イモリを獲ると怒られた。赤い鈴を首につけられてから、ねずみが取れなくなった。
「お前はスズのただ一人の友達だから、どこにいるか知りたいの」と言った。
この世界に、普通のネズミはいなかった。黒いモヤのついた物怪ばかりで噛みついても肉はなかった。不味い、不味いカスばかり。だから、黒猫は痩せ細っていった。主人はパンとスープをくれたけど、黒猫はそんなものは食べられなかった。虫を取り、鳥を獲った。
そしてある日、コロリと死んだ。
それでも主人が心配だったから、ずっとそばにいた。主人の瞳から涙がほろり、ほろりとこぼれ落ちるのを舐め取って、眠る時も起きている時も、ずっと主人の横にいた。
主人はいつも甘い匂いがする。
その匂いを舐めるだけで、まだそばにいられると思った。腹はいつも空いている。死んだのに、まだ食べたいという意識だけはそこになった。
ある日、主人の目の前で「愛しい男」の首が飛んだ。
主人が狂ったように泣き叫び、声が枯れるまで泣いた。代わりに別の男がそばに居座った。
黒猫は死んだ男の顔を覗き込み、瞳を食べ、血を啜った。体の方は腹を裂かれ、獣の餌に放り出されたので、それも食べた。
なのに腹は膨らまない。
主人の元に戻っていくと、白いモヤが主人を包んでいた。 よく見れば、首を飛ばされたあの男だ。主人を黒猫と同じように愛した男。
主人が「愛しい」と呼んだ男。
男が黒猫に気が付いて、「俺を食え」と言った。
「そうすれば、俺はスズのそばにいつでも居られる。お前がスズを守る限り」と嬉しそうにいうから、黒猫はパクリと男を食べた。
美味かった。満たされたと思った。
その代わり、黒猫は黒猫らしさを少し失った。それが、なんなのかはわからない。
でも黒猫はもう、虫を追いかけるのをやめた。鳥にも見向きをしなくなった。
誰かを探すのを、やめた。
見つめるのは白いモヤ。
この世界に黒いモヤはたくさん浮かんでいる。大地から、獣から、人々から。スズの体からも、黒いモヤが立ち上がっていた。
「負の感情」
というものを知った。黒いモヤは不味いということも。
それから黒猫は主人のそばにいながら、白いモヤを探して食べた。神殿にはたくさんあった。主人を大切にする人間は美味いと気づいたから、食べて食べて、食べ尽くした。でも満たされるのは、ほんの短い時間だけ。
そのうち白いモヤがなくなってしまった。有るのは黒いモヤばかり。
そして主人が死んだ。
桃の甘い香りが鼻を突く。
白いモヤが立ち上がるのを待ってみたが、主人からはモヤは出てこなかった。
『クロや、クロ』
そう呼ばれる事も、なくなって久しい。名前を呼んでくれる人がいないから。誰も黒猫の存在を覚えていなかった。
孤独だけがその色を濃くした。
「にゃあん」
誰にも聞こえない。
主人がいない。もう、クロ、と甘い声で呼んでもくれない。
寂しい。
寂しい。
どうしてクロだけ、ここに残ったのか。黒猫にはわからなかった。
この世界の魂を食べたせいで、この世界に紐付いてしまったなどと、考えた事もなかったから。
この世界にはもう、白いモヤが生まれてこない。
どこかから調達しなければ、空腹は満たされない。
どこから?
向こう側から。
こちらに引き摺り込まれた時の、道ができている。今の黒猫にはよく見えた。
何度か、あっちの白いモヤを食べた。けど気がつくと、こちらの世界に引き戻されていた。長い間、彼方にはいられないようだ。
黒猫はいつも腹ペコだった。
彼方の人間をこちらに連れてきて、増やしてみたらどうかと考えた。何度か繰り返して、時々白いモヤがでてきた。でもそれを食べてしまうと、気がつくのはますます増えた黒いモヤだった。
息苦しい。
黒いモヤは不味い上に、臭い。
不浄なもの。
強欲。
嫉妬心。
恐怖心。
人間の持つ感情はみんな黒いモヤとなって湧き上がる。ならば、白いモヤは何でできているのか。クロには解らなかった。
ある時、連れてきた人間が浄化を使った。黒いモヤが幾分か薄れた。なるほど。あれと同じ力を持ったやつを連れてこればいいのか。
思ったほどたくさんはいなかった。だから黒猫は「浄化のできる人間は食べない」ことに決めた。浄化された人間が白いモヤになるからだ。
そうやって何年も、何年も行ったり来たりを繰り返すうち、黒猫は己の存在理由を忘れた。なぜ同じことを繰り返しているのかすら思い出せない。
そして、恵理子に出会った。
「猫ちゃん」
それが、何を呼び起こしたのかわからない。白いモヤが沸き立つ。甘い香りが何かを彷彿とさせる。
「にゃあん」
声が通った。恵理子の顔が黒猫を見る。視線が合う。ニコリと笑う。
胸がギュッとした気がした。
「猫ちゃん、おいで。これ、食べる?」
甘く囁くような声に、黒猫の体がぼやけていく。
とろけるように、柔らかくなって、黒猫は恵理子に執着した。何かを思い出すのだ。ずっと記憶の彼方に沈めた匂い。
ほしくて、欲しくて。欲しくて。
手を伸ばしてしまった。
そして。
荒ぶる神に遮られた。
恵理子と繋がった糸がバッサリと斬られて。
そして、目が覚めた。
スズ。
黒猫の主人。忘れていた主人が、黒猫を呼んだ。
『クロや、クロ』
『ようやっと会えた。わたくしの可愛いクロ』
「にゃおん。にゃあーん」
主人が戻ってきた。
甘くて優しい黒猫の主人。
広げられた腕の中に飛び込んで、甘い匂いをいっぱいに吸い込む。
「おイタをしたのね、悪い子」
と嗜められて、耳を伏せる。それでもクロの喉を撫でる手は優しくて甘やかだ。スルリと撫でる喉元に、無くしたはずの赤い鈴が巻き付いた。
主人の持ち物の印。リン、と小さな音がした。
そうだ。
そうだった。
恵理子が綺麗にしてくれた世界。
あそこが主人とクロの住処だった。クロには主人がいるところが住処なのだ。
『さあ、わたくしの可愛いクロや。孤独を救いに行きましょう。あの人のいない世界は、冷たくて寂しいの。そんな世界はもう要らない』
主人がいらない世界は、クロにも必要ない。
だから、行こう。
孤独を食べに。
読んでいただきありがとうございます。感想・ブクマもお待ちしています。




