逢うべきもの、逢ってはならぬもの
本日一本目の投稿です。
黒猫……とあれは、なんだ?
黒猫の後ろに、伸びる影。リン、と小さな鈴の音がした。
顔を上げる黒猫の視線を追って、見上げると女の人、だろうか。
長い黒髪の、まるで万葉集から抜け出してきたかのような着物姿の女。
黒猫を抱き上げると、僕を見た。 息を呑む。
伽藍堂の瞳。白い肌。——亡霊。
全身が泡立って、一瞬心臓が止まったような気がした。
「……あら。猫ちゃん、どこ行ったのかしら」
呑気な恵理子の声で、はっと我に返る。
そこにはもう、誰もいなかった。まるで、最初から何もなかったかのように。
——飼い主、だったのだろうか。黒猫は、飼い主を探して恵理子について歩いていたのか。
それとも、この場所が逢いたい人に会わせたのだろうか。
どちらにせよ。
「恵理子さん!」
思わず、強い声が出た。
「ハイッ!ごめんなさい!」
反射的に謝罪が返ってきた。でも、きっと彼女はわかってない。
「携帯、見てください」
「え?」
「今すぐ」
その言い方に、恵理子は少し驚いた顔をしたが、素直にバッグからスマホを取り出して、電源を入れた。
「携帯電話は、緊急時に使うためにあるんでしょ。電源切っててどうするの!」
「ご、ごめんなさい。だって、夜しか見ないと思って」
画面を見て、固まった。
「……え」
通知の数と未読のメッセージ。
「いつの間に、こんなに?」
指が震える。
「……なんで、気づかなかったの」
自分でも信じられない、という顔。
「……私、全然……見てなかった…?」
僕は、何も言わないで、恵理子さんの顔を見る。痩せた頬、生気のない白い顔。
——あと一日遅れていたら。いや、数時間だったかもしれない。数分の可能性だって。
そう思うと、冷や汗が止まらない。
こんなにみんなが心配してたのに、今の今まで気にもしなかった、そんな状態で。
こんなに痩せ細って。こんなに死にそうな顔で——。涙をグッと堪えた。僕が泣いてどうする。本当に、間に合ってよかった。
——間に合ったんだよな?
「……電話、しないと」
恵理子さんが震える指で操作する。
コール音。
そして。
『ちょっと母さん!?』
僕の耳にも聞こえるくらいの大音量で、娘さんの声が飛び出した。ぷっと噴き出す。
『今まで何してたのよ、全然連絡つかないじゃない!約束忘れたの!?』
「あ、ご、ごめーん……ちょっと、何が何だか、電話が全然繋がらなかったというか……」
しどろもどろで言い訳を探すけど、甘んじて受け止めるべし。彼女には、心配してくれる家族がいるのだから当然だ。
『もう! 心配したんだからね!』
怒りながらも、どこか安堵した声。僕も密かに息をつく。
『……あのね、一大ニュースがあるのよ。実はね』
少し間があって。
『赤ちゃん、できたの。二人目』
「……え」
恵理子さんが目をまん丸にして僕を見る。「赤ちゃん」と口が動いた。おめでたの知らせだったらしい。僕の口元も緩む。そうか、孫が生まれるんだ。他人事ながら、嬉しく思う。
『今、3カ月に入ったとこ』
くすり、と笑う気配。
「……そっか。お、おめでとう!ますます忙しくなるわね!」
ぽろり、と涙がこぼれた。僕に向かって「日菜子に二人目ができたって!」と興奮気味に伝えてくる。
瞳に光が戻ってきた。
『仕事はやめないから、母さんにも役立ってもらわないと!』
「えぇ?私を使う気?」
『期待してるわよ、おばあちゃん!』
次々と現実が流れ込んでくる。
恵理子さんの兄からの連絡は、遅がけの姪っ子の結婚の知らせ。息子からの知らせは、元夫が退院したこと。
——父さんが、釈放された。母さんに会いたいと言っている。
「……ああ」
ぼんやりと、空を見上げる。元の旦那さん。恵理子さんに酷い仕打ちをした男——。雨がいつの間にか止んで、ほんの少しだけ青空が見える。
「どうでした?」
僕が、軽い調子で恵理子さんの肩を叩くと、ほんのり微笑んで。それから涙がこぼれ落ちた。
「一之瀬さん。私、生きてるわ」
ぽつりと呟く。
僕も静かに頷いた。
恵理子さんの頬に、少しずつ色が戻っていく。
さっきまでの、あの儚さは、今はしっかりと色づいて恵理子さんを象った。
「もう、大丈夫」
現実が、彼女の手綱を握ってくれた。




