番外編:じいと道祖神
「……行ったか」
低く、年を経た声が言った。
その声の主は、ひときわ古びた石の影に寄りかかるようにして座っている。人の形をしているが、輪郭は曖昧で、時折うっすらと鱗のようなものが浮かんでは消えた。
「行ったねえ」
別の声が応じる。今度は軽い。道の脇に並ぶ小さな石——道祖神たちが、ざわざわと気配を揺らした。
「結局、あの猫も帰ったし」
「しつこかったわりには、あっけなかったのう」
「いやいや、あれは“引き際”ってやつじゃろうて」
「あれは古くから迷い込んでおったしのぅ」
「飼い主に会うて良かったことじゃろ」
くすくすと笑いが漏れる。
じいは鼻を鳴らした。
「スズはあっちに引っ張られて、帰ってこれなんだから」
「運命はワシらではなんともならんでの」
しばし、沈黙。
風がまた吹き、峠の向こうから、わずかに人の気配が遠ざかっていく。
「しかしまあ」
馬顔の道祖神が、わざとらしくため息をついた。
「じいだけ、ずいぶんと手ぇ出しとったんじゃないの」
「そうそう。熊鈴だの、姿見せただの。夢ん中までちょっかい出した」
「贔屓、贔屓」
「エロジジイ」
口々に言われ、じいは片眉を上げた。
「……ほう?」
空気が、ぴしりと張る。
だが次の瞬間、じいはふっと笑った。
「鈴ひとつで道を違えるほど、人は軽くはないでよ」
「でも、渡した」
「しかも、あれ効くやつじゃろ」
「魔除け以上の何か、込めとったじゃろ」
「さてな」
じいはとぼける。
その顔には、どう見ても悪びれた様子はない。
ましてや、異世界の方で非常にまずいことになっておったなどとは、一言も漏らさない。
——あれはただの副作用じゃった。
向こうの国作りの神にバレたら、越権行為として文句を言われるかもしれん。
だが、こちらの可愛い子らを最初に引っ張っていったのは、向こうのほうだ。あれだって、大国主様にバレれば大問題になるはずだから、向こうも強いことは言えんはず。
――何かあったら、諏訪の坊に責任を取らせよう。
「わしはただ、鳴らせば気づくものもあると教えただけだ」
「ほーう?」
「ほーう?」
「それを贔屓と言うのでは?」
じいは今度こそ、はっきりと笑った。
「贔屓で何が悪い」
あっさりと言い切る。
あれは、懐かしい昔を思い出させる子だった。まだじいが神になる前の、小さな蛇だった頃を。
「人はな。自分で選ばねば、進めん」
ゆっくりと、峠の向こうを見る。
「どうせ、わしらは道しか示せん。押してはならん。引いてもならん」
その声は、どこか遠い昔を思い出すようだった。
「じゃが——」
ほんの少しだけ、表情が柔らぐ。
「よく歩いた者には、土産のひとつもやりたくなる」
道祖神たちが、うんうんと頷いた。
「確かに最近はわしらに気づく人間も減ったしの」
「きれいにしてもろうて、お供えも祝詞ももろたしな」
「わしのそばからナメクジが減ったでよ」
「あれは、塩で食べると旨いがよ」
「ゲテモノ喰いが。りんごの方がよっぽど馳走じゃ」
やがて、ひとつがぽつりと呟いた。
「……じいは酒と鰻、もらっとったのう」
「ほくほくしとった」
「顔に出とった」
「ずるいのう」
間を置いて、どっと笑いが弾けた。
じいは顔をしかめたが、否定はしなかった。一枚の写真を懐から取り出す。そこに写っていたのは、恵理子が木漏れ日を見上げているところ。黒猫の姿は、もう無い。
必死の形相でやってきた男が、死んだ妻に詫びを入れ、生きた女を選んだあの夜。
男の妻だった女が、じいに頭を下げた。これであの人の幸せな顔を見られます、と笑って逝った。
あの男は、気づいていないかもしれないが、合わせて四つの魂を救った。
死んだ妻と、恵理子。向こうで鬼となったスズの魂と、悪霊になりかけておった黒猫の魂。
——まあ、向こうでスズと黒猫が何をしようと、こっちの知ったこっちゃないずら。
「供物は供物だ」
「はいはい」
「うまかったんじゃろ」
「うなぎ食わせろ」
「酒よこせ」
「……脂がようのっとったわ」
ぼそりと漏れた本音に、また笑いが広がる。
風が、やわらかく吹いた。
もう、あちらとこちらを繋ぐ気配はない。
ただ、一本の道が、まっすぐに続いているだけだ。
「行ったな」
誰かが、もう一度言った。
「行ったねえ」
「これで、しばらくは静かかのう」
「次は誰が来るやら」
じいは立ち上がる。
輪郭がゆっくりと景色に溶け込み、湧水が磐座の横を流れ出す。
「来る者は来る。来ぬ者は来ぬ。……だが」
最後に、こんな言葉だけを残して。
「道は、いつでもそこにある」
峠には、また静けさが戻った。
どこかで小さく鈴の音がした気がした。
恵理子の中山道の旅はこれにて終わり。
次はどこに行こうかなぁ、の前に色々現実問題を考えないといけない恵理子です。
日菜子の妊娠もわかったことだし、どこかにアパートも借りないといけないし。
また何処かの山歩き中に、お会いするかもしれません。その時はどうぞお声をかけてくださいね。
道祖神様たちへのお供え物も忘れずに!
それでは、また。




