孤独の底
本日一本目です。
「神隠し……」
ぽつりと呟いた瞬間だった。
地面が、消えた。
「え……?」
足元の感触が、なくなる。
それでも、落ちない。宙に浮いたような、奇妙な感覚。
景色が、滲む。山道が歪み、色が抜け、別の何かに塗り替わっていく。
万華鏡の中に入り込んでしまったような、不思議な感覚に背筋が凍る。
「ちょっと、待って……」
黒猫が、その影が、じわりと広がっていく。
足元から、影が這い上がる。
「……やだ、」
冷たい。
水でも泥でもない。もっと嫌な、何か。
ねっとりと絡みつくような、空白。
途端に理解した。
孤独。
これは、孤独だ。ずっと私の中で沈んでいた闇。
落ちないように、蓋をしていた記憶なのに。
「やめ……」
声が、うまく出ない。
黒猫が、振り返る。
その瞳が、細められた。
——その瞬間。
世界が、音もなく切り替わった。
闇。空も、地面も、何もかもが吸い込まれていく。
遠くで、何かが燃えている。煙が上がり、空を覆っている。
見たことのない世界。
——でも、知っている。
「……あの時の」
夢の中で見た景色。
あの、世紀末のような、終わりかけた世界。
大きな蜘蛛がいて、人面の鳥のようなものがいた。
四つ目のカモシカと、マントをつけた骸骨も、あれは、全部この世界に繋がっていた。
黒猫の影が、さらに膨れ上がる。
足元を覆い、腰まで、胸まで。
「……っ」
息が、出来ない。意識が引きずられる。
「……あ……っ」
何かが、剥がされていく。自分が、自分じゃなくなるみたいに。意識が遠のいていく。
まだ。
まだ、歩いていない。歩き終わっていないのに——
——連れて行かれる。
そう思った瞬間だった。
シャッと、まるで幕を裂くように、光が闇を裂いた。
黒猫の影が引き裂かれ、甲高い声が聞こえた気がした。
「……猫ちゃん……っ!」
闇が、霧散する。黒猫の金色の瞳が、色を失っていく。
濃度を失って、消えていく。
リーン、と鈴の音が聞こえた。
——熊鈴?
影の合間に見えた白い艶やかな身体は——龍神様?
桃の花びらが、ひらりと目の前に降り注いで、ほのかな香りが鼻についた。
『クロや、クロ……』
優しく囁く声が聞こえたような気がしたけど、それどころじゃなかった。
肺一杯に空気が溢れて、視界が反転する。
「……ごほっ」
思わず、膝をつく。ばしゃり、と膝を濡らす音がした。
気がつくと、私は元の山道にいた。
木々のざわめき。
雨の音。
現実の感覚が、戻ってきていた。
「……なに、今の」
荒い呼吸のまま、顔を上げる。
黒猫が、すぐそばでうずくまっていた。
「……猫ちゃん?」
様子がおかしい。濡れそぼった身体を丸めて、小さく震えている。
あの世界に連れて行こうとしたのはやっぱりこの子だった。
何かを私にさせるために。でも。
「どうしたの……具合悪いの?」
失敗したから?
それとも……熊鈴。
龍神様に止められた?
慌ててバッグを開けて、猫缶を取り出した。舌ビラメのやつ。本当は逢坂の関で、休憩時に開けようと思ってたけど、まあいい。
元々、この子の分だから。
「ほら、お食べ?」
缶を開けて差し出す。
黒猫は、じっとこちらを見てしばらく動かなかった。
やがて。
ノロノロと近づいて。
静かに缶に口をつける。ちゃく、ちゃくと咀嚼する音が聞こえてホッと胸を撫で下ろした。食べられるなら、きっと大丈夫だ。
「東京からついてきてるんだもの。猫にとっても長旅だったわよね」
苦笑する。
「お前も、よく頑張ったわ」
黒猫は何も言わず、ただ、黙々と食べていた。
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