峠の先へ続く道
本日一本目。
その日、私は摺針峠を登っていた。
雨は止み、曇り空。少し蒸し暑いけど、平坦な道よりは幾分風が涼しい。
「なんだか最近、歩くのにも慣れちゃったみたい」
足取りは軽く、息も上がらない。昨日まであれだけ疲れていたのに、まるで身体が空っぽになったみたいに、すいすいと登れてしまう。
「変ねえ。こんなに楽だったかしら」
体が軽くて、全然疲れを感じないのがまた不思議。ちょっと前にこの感覚、経験したような気がするんだけど、何処でだったかな。摺針峠は中山道の最後の難所と呼ばれていたみたいだけど、舗装されてて歩きやすい。ちょっと拍子抜けだ。
山道は、思っていたよりも静かだった。鳥の声がしない。風の音も、葉擦れもない。ただ、自分の足音だけがやけに軽く響いている。
「これなら京都まで一気に歩けちゃいそう」
笑いながら一歩踏み出して、ふと気づく。
——自分の足音が、遅れて聞こえた。
「……ん?」
立ち止まって振り返る。誰もいない。
もう一つの足音も、ぴたりと止んだ。
ぞわり、と背筋が粟立つ。
「……何?」
耳鳴りがする。音が聞こえない。風も、鳥も、熊鈴の音すらも。
「にゃあん」
ただ、黒猫の声が聞こえた。
「ひっ!?」
飛び上がって驚いて足元を見ると、黒猫がいた。金の瞳が真っ直ぐに私を見る。
黒猫が何かを言ったかのように口が開くのに、声は聞こえない。
「……なんだ。またお前なの、猫ちゃん。脅かさないでよ、いつからいたの?」
ホッとして胸を撫で下ろし、仕方ないなあとバッグを探る。あった。昨日買った煮干し。
猫缶をあげて贅沢に慣れてしまうとやっぱり良くないと思いつつも、やっぱり猫缶も買ってしまった。もしこの旅が終わるまでついて来れたならあげようと思う。
私でさえ大変なのに、この子も頑張ってるんだもの。最後はご褒美あげたい。
「でも今はだめ。今日はこれで我慢してね」
ついでに買ってしまった、餌を入れるためのプラスチックの容器に、煮干しを入れて差し出す。
「旅が終わってもついて来るようなら、飼ってもいいかなあ。ねえ、猫ちゃん」
黒猫はちょっと迷ったけど、やっぱり大人しく煮干しを食べ出した。ふふ。可愛い。
私も柿の種を取り出して一休み。栄養にはならないけど、時々食べたくなるのよね、これ。何気なく座った歩道の横の岩から峠の方を見る。もうあと数百メートルというところだろうか。
なんか大きな石碑みたいなのが見える。
「大きいわねぇ。何かしら、あれ」
ガイドブックにはあんなもの載っていなかったような気がする。新緑が深くなってきた季節なのに、その横に生えている木は、枯れ木のまま。
「……あの木、どこかで見たことがあるような気がする……」
最近、どこかで見たことがある気がする、ということが増えた気がする。
「頭はやっぱり57歳のままか……。残念。全く思い出せないわ。枯れ木なんてどの木も同じに見えるものよね。今度はスドクでも買って頭も鍛えないとダメね。体重と比例して、脳みそまで軽くなってどうするの」
気がつくと、猫は食べ終わって顔を洗っていた。小休憩を終わりにして容器をバックパックに入れ直して出発。相変わらず、ちょっと前を歩く黒猫が、旅のお供のようで微笑ましい。
「あなたがいると、一人じゃないって思えるわ。ありがとね」
一之瀬さんは今どの辺を歩いているのかな、なんて。黒猫といると、ふとしたことですぐ考えてしまう。楽しかったんだもん、しょうがないわね。
10分もかからずに、例の石碑まで辿り着いた。近くで見ると見上げる大きさの黒い石。プラークに何か彫り込んであるけど読めない。ヒエログリフみたいな。
でも絵でもない。落書き?
「なんだったこんなところに灯台みたいな石碑が……?御影石とかいうやつかしら。え、でもこんなとこで使う?っていうか、墓石?まさかこれも道祖神様?」
何気なく。
本当に何の気なしにその落書きに手で触れた瞬間。
石碑に彫られた碑文の内容が、頭の中に擦り込んできた。




