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神様のお使い

「中山道、歴史が深すぎるわ」


 三週間前に歩き始めた頃より、十数キロ痩せて身軽になった私は、この短い中山道歩きを振り返った。


 ただいま、道の途中で銭湯に浸かっています。雨続きで靴がジメジメと乾かないのがその理由。いや、あまり理由にはなっていないけど。


 なんだか色々ありすぎて、疲れた。


 57年生きてきて、こんな経験は初めてだ。幽霊を見たり骸骨が突進してきたり、巨大な蜘蛛に睨まれたり。なんだか毎日変なのを見てる気がする。頭が追いつかない。怪談が多すぎる。


 ちゃぽん、と湯水に滴が落ちる。


 結婚して、子供ができて。孫が産まれて、離婚して。


「老後の人生、ねぇ」


 一体何を楽しみに生きてけばいいのかーー不安はある。


 子供もそれぞれの家庭を持ったし、仕事も順調のようだ。孫も生まれて、手助けもそれほど必要なくなった。ただの独り身のおばあちゃんだ。必要のなくなった母親に、必要のなくなった妻。


 今後は私の方が子供たちを必要とするだけの人生になるのか。


「重荷にはなりたくないのよね……」


 私の両親は、私が結婚するより先に死んでしまって、面倒を見る人はいない。久志さんの両親がいたけれど、それももう必要ない。


「そっか……。私、もう要らない人なんだ、よねー」


 どこか、遠くに行ってしまおうか、なーんて。


 正直なところ、考えないでもなかった。ずっと歩いて、歩いて、歩き続けて。


 どこか誰も私を知らないところまで歩いていけたら、気楽になるのかな。


 何の責任も心配もなく、誰に見咎められるでもなく。誰に必要とされず、誰も必要としない場所まで。


 旅行代理店の人見さんの言葉が蘇る。


『現実に完全に見切りをつけてしまうと、目に見えないものに惹かれやすくなるそうです。神隠しにあったっていう人もいます』


「神隠し、ねぇ」


 一里塚の上で舞っていたあの人は、きっと神隠しにあって、あちらの世界の騎士様に出会った。だって騎士も王様も、着物を着たあの人とは明らかに別世界の人だった。


 ああいう世界に飛ばされちゃうのかな。


 気づかないものなのよね、神隠しにあった人は。いつの間にか知らない世界に迷い込んじゃって、あれ、ここ何処かしら?なんて思っちゃうのだろうか。


「もしかして、私もそんな感じ、とか?」


 もしかして、半分連れていかれてるのかも。


「やあねえ。子供みたいな考えだわ」


 ふふ、と自嘲して湯船から上がる。


「あーなんだか、ほんと、疲れちゃったわ」


 垢すりマッサージでもしてもらって、今日はもう美味しいもの食べて寝よう。


 2時間も銭湯で粘った後、宿への帰り道。小さなスーパーで500gの粗塩を買い求めて、ちょっと旅の食料を確保。この辺りは住宅街だから、気楽に歩けていい。こんな道路の真ん中で道に迷うこともないし、おかしな現象も起きないはず。


「にゃあん」


「……出たわね。あんた、ほんとにストーカーなの?この辺ならご飯くれる人いっぱいいるんじゃないの?」


「ぐぅにゃあん」


「そこでお腹見せてもねぇ。ああ、ヨシヨシ。かわいい、かわいい」


 ポーズを見せる黒猫の腹をコシコシと撫でると、ゴロゴロと喉が鳴る。どう見ても普通の猫だ。


「煮干し、食べる?」


「にゃあん」


 パックの煮干しを手のひらに差し出すと、ポリポリと食べる。チラッと猫缶も買うべきかと考える。


 いやいや、このまま贅沢に慣れてもこの子が困るか。


「あなたねぇ。私についてきても飼ってあげられないのよ、わかる?」


 黒猫は、するりと私の足に頭をなすりつけ、ぐるりと体を擦り寄せた。


 うん、かわいいわ。


 抱き上げたいけど、ノミとかいるかもしれないし。


「あなたと旅を続けるのもいいかもねえ」


 でも、毎回変な掃除をさせられるのは嫌だけど。


「あなたのおかげで、神様と近くなった気がするわ」


 旅に出るまで、道祖神とか馬頭観音とか、神社の神様とかほとんど無縁だったもの。そんなことを考えていると、猫が毛を逆立てて、私を見た。


「わっ、なあに?」


 金の目がまんまるに開いて、瞳孔が開いている。いや、猫の目って暗いと大きくなるんだっけ。


「お前、もしかして神様のお使いか何かなの?バレた!って顔してるわ」


 そう言って笑うと、プイッと顔を背けて走り去ってしまった。


「なんだったのかしら。変なの」


 神様の使いってバレたらダメだったのかしら。




 その日の夜は、おでんの屋台でご自慢だという大根と卵を食べて、宿に着いた。明日は摺針すりはり峠を目指すので、しっかり休まないとね。ここが最後の難所となるはず。それを過ぎたら、逢坂の関までは平坦だと聞いた。山道でも20km歩いてきたので、平坦な道ならもう少し歩ける気がする。


 銭湯の体重計では、現在49キロ。


 たった三週間で、ちょっと急激に痩せすぎじゃない?と思って鏡を覗いたけど、皮が弛んだという感じはなく、引き締まって見えた。顎のあたりもシャープ。


 これ、げっそりしてるって思われないわよね?


 お風呂屋の鏡は実物より美しく見えるというけど……。いや、これが今の私よ!ははは、どうよ。この変化!ビフォー・アフターみたいじゃない?中山道ダイエット歩き!温泉旅行でお肌も若返って、今ならあの軽井沢のナンパ君の言葉も信じられるかも。


「でも30代は言い過ぎね。47歳くらいでいけるかしら?10歳はサバの読みすぎ?」


 日菜子に言ったら、ちょっと図々しいんじゃない?とか言われそう。ふん、だ。








 尻尾をビタン、ビタンと地面に叩きつける。


 黒猫は憤慨していた。


 神様の使い、だと。


 全くもって、不愉快だ。


 黒猫はこれまで人間から恐れられたことはあっても、馬鹿にされたことはない。かわいいと言われて、餌をもらったことはあった。それは贄として受け取ったので問題はない。時には、剛と柔を使い分けることも必要だと経験から学んだ。


 だが、人間に気を許した覚えはないし、触らせることなど滅多にない。


 ただ一人、あの人間だけだった。


 気を許して、触らせてやったのだ。


「……」


 顔を洗う。全身隈無く舐め回して、ようやく気を落ち着けた。……いや。まだ腹立たしい。


 屋根の上から、地上を見下ろす。忙しなく歩く人間が目に入る。夜に紛れて、魂がふわりと離脱するのを見つけ、宙を走る。


 煤けてはいるが、摘み時だろう。パクリと口に含む。


 まだ硬い。旨くはない。吐き出す。


 一応、印はつけた。連れて行くか、行くまいか。


 いや。


 明日には多分、恵理子(アレ)が摘み頃になる。


 暫くぶりのご馳走の前に、こんなもので口を汚すのは宜しくない。恵理子の後にしておこう。それとも恵理子に浄化させてもいい。


 とはいえ、アレは手加減を知らない。女神だなんだと呼ばれているが、アレはただ全力であの世界を拒否をして、全て昇華させているだけ。


 食べ損なった魂の数を考えると、また怒りがぶり返してくる。


 だが、落とした虚無は育ってきている。ちょっとの諦めと、ちょっとの虚しさ。必要とされる場所の提供さえあれば、そちらに流されるはず。


 ずっと前から目を付けていたもう一つの魂が落ちれば、こっちも落ちると思ったんだが。


 ……近づけすぎたのが間違いか。あの忌々しい蛇に釘を刺された。


 今日のアレは少し色がくすんでいた。それが何を意味するのか、わかった気がする。


 色づくと肉体から離れ難く、白くなると離れやすい。透き通るほどになれば、極上の氷菓子のような甘みが出るのだろうか。


 ああ、腹が減った。もう、我慢はやめだ。



 そろそろ、摘みに出かけようか。


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