悲劇の舞の開幕(前)
一部、過酷な描写を含みます。
その日、私は今須峠を歩いていた。
十三峠以来、ずっと雨。土砂降りでは無いけれど、気分は憂鬱になる。
蒸し暑く、雨ガッパも必須。鳥の声も今は聞こえない。街道を歩くのはそれほど悪く無いけれど、段々と都会に向かっているのか、車通りも多い。
昨夜、渉と話をした。
お父さん、いや、久志さんが逮捕されたと聞いた。
「逮捕ォ?!何したのあの人は、また。もしかして、きららさんと何かあった?」
『まさにそのとおり。なんかさぁ、ストーキングしてたらしくて。暴力沙汰になって現行犯。俺も事情はよくわかんないんだけど、父さんから電話があって釈放の手続きをとって欲しいって言ってきた』
「えっ、あんたに?」
『事情を知ってからじゃ無いと無理って断ったんだけど、もちろん母さんは知らないよね?』
「初耳よ。日菜子は?」
『必要ないって言ってたよ。あいつ、あの人のことほんとに嫌ってるからさ。なんか押しかけてきたらしいよ』
「えぇっ。被害は?」
『それはなし。自分が弁護士だって教えたら、尻尾巻いて逃げたって。たださ、昨日ばあちゃんから電話があって、遺産相続の変更があるって。あの人には一円も残らないらしいよ』
「まさか。一人息子なのに……」
『とにかくさ、こんなこと電話じゃなんだから、会って話そう。あ、別に予定の変更とかはしなくて良いから。旅行終えたら連絡ちょうだいよ』
その後、日菜子に連絡をしたら、弁護人を頼まれたけど蹴った、と鼻息を荒くしていた。まあね、子供達から好かれているとは思ってなかったでしょうけど。
なんでも傷害事件に発展して、腹を刺されたのだとか。きららさんの長男が反撃というか、正当防衛でというから、また包丁でも振り翳したんだろうなぁ、と苦い思い出に眉を顰める。
全然変わってないんだなぁ。
「全く。私と離婚までして、一緒になりたかった人なのに。何してんだか」
お母さんがよく言ってた言葉を思い出す。
『酒好き、ギャンブル好き、女好きは死んでも治らん。とっとと切って捨てろ』と。お母さんは、お父さんのことどう思っていたんだろ。お父さんの飲酒運転が元で、二人とも死んでるからなぁ。やるせない。
兄さんは、きっと今でもお父さんのことを許していない。我が家の遺影は、お父さんとお母さんを離して飾られているから。
今頃、あの世では清清して、お互い好きなようにしてるかもしれないけど。離婚こそしなかったけど、お母さんは意外とはっきりした人だったから「あんたなんかいらん」とか言っていそう。
まあ、私が死んだ暁には、墓も別だし、久志さんの隣に飾られることもないのだけど。
「愛、かぁ」
あれが愛だと言うなら、ろくなもんじゃないわね。
もっと歳をとればわかるのかと思っていたけど、やっぱり分からず終い。そんな高尚なものは、神様ぐらいしか分からないものよね。あんなにこの人しかいない!と思って結婚した相手でも、結果はこんなだし。
恋だの愛だの。若いうちだけなんだわ。そんなものに憧れを持つのなんて。
「……一之瀬さんは、奥さんをとても愛していたわね、そういえば」
事故で亡くして30年近く。ずっと奥さんを想い続けていたみたいだし。ちょっと羨ましい。そういう愛を経験してみたかったけど、この人生じゃ無理ね。残り少な過ぎて。
……うん、確信する前にボケるわね。
「ま、いまさら求めてもいないけど」
求めるだけ、無駄。
裏切られて、落ち込んで。二度目となれば立ち直れずに、寂しい老後を送ることになるんだわ、きっと。
「これから楽しく、気楽に、好きなことだけして過ごすんだから」
それで良いのよ。私には十分。
目の前には一里塚。
降りしきる雨の中、着物姿の女性が、一人。舞を舞っていた。
とても古風な出立ちで。射干玉の髪は足に届くほど長い。歌舞伎で見るような、大和撫子と形容するのがふさわしいような。
練習、というにはいささか不自然だ。なぜこんな一里塚の上で、雨が降りしきる中、踊っているのか。
でも声をかけるには、その舞の姿がなんだか悲しげで。
まるで舞台を見ている様。雨がまるで彼女の涙の様に見えて。
私は立ちすくんだ。
風の中に、鈴の音が響く。
その後を追う様に、鼓の音が静かに響き、空に消える。
届かないのだ。
想いが、空を舞い、その場にいない想い人へと伝えようとするのに。
雨に消されてしまう声。
彼女の視線を追うと、そこに現れたのは、一人の騎士。
駆け寄る女性は、白いドレス姿で、今一里塚の上で踊っている女性だと分かる。あたりに香るのは桃の香。月夜の桃の花の咲く木の下で、二人は逢瀬を交わしていた。ガゼボで手を繋ぎ、額を寄せ合う。ドレスの女性はくすくすと笑い、騎士の男は照れ臭そうにはにかんで。
これは彼女の記憶なのか。
二人で静かに踊る。二人だけに聞こえる音楽に合わせて、静かにステップを踏む。愛おしいという気持ちが風に乗って伝わってくる。
何というか、初々しい。今時の学生でもこれほど初々しくはない気がする。ほう、とため息をつきたくなるほど、二人の愛が伝わってきた。
耳元で囁くのは、愛か。秘め事か。
ターンと堤の音が響き、はっとする。
騎士と女性が、引き裂かれた。
騎士は、他の騎士に捉えられ、女性の方は別の男に羽交い締めにされる。
泣き叫ぶ女と膝をつく騎士。
王冠を乗せた男が女を打ち、それでも女は引き下がらない。
「あっ!」
思わず、口元に手を当てる。
——男の首が、宙に舞った。
後編も同時投稿しています。




