黒猫の苦悩
「……」
黒猫は、小首をかしげていた。
予想していたのと違うからだ。
おかしいな、と少しの違和感を、黒猫は理解できなかった。
恵理子に見せた現状は、今にも死に絶えそうな世界の一部である。
世界の崩壊が始まり、死が充満する世界。
そこに這いずる魂は汚くてドブ臭い。とても食べられたものではないし、触るのも嫌だ。一つ腐れば皆腐る。恵理子が言う通り、臭い。腐臭がする。だからこそ、恵理子を連れてきて、浄化を促す予定だったのに。
予想と違った。
予想では、恵理子がこの世界の在り方に慈悲の心を見せ、『まあ、かわいそうに。私が助けてあげなくては!任せてちょうだい』と言うはずだった。
そしてそこから使命感を持って、人々の情を誘い、ここに居座るべきものとして固定される。
そのように。
そうなるように、この世界に引き摺り込もうとわざわざ力を使ったのに。
恵理子のとった行動は。
「足くらい、毎日洗いなさいよ」
確かに。
確かに臭かった。それは同意する。でもそれは足じゃない。それに臭いからと言って、全てを洗い流すのは違う。まだ食べられる魂もたくさんあった、はず。
綺麗にしてくれたら、あとは黒猫が肉体から摘み取って、美味しくいただくはずだったのだ。恵理子を神と崇拝して、綺麗に垢を落とし、それを媒介に生贄となった魂の味は、どれほど甘美だっただろうか。
あぁ。腹が減った。
特にあのエルフの王。
あれは最上のデザートになりうる魂だった。
高貴で気高い。
ヒラメの猫缶にも勝る味になるはずだったのに。
あっという間に昇華した。
あれが、この世界に戻ってくるにはあと何百年待たなければならないのか。
まあ、いい。
腹は減っているが、待つのは得意だ。
腐った卵のような王にへばりついていた小さな騎士たちの中には、食べがいのありそうな魂もいた。あのヘドロの中で少しだけ輝いていて、王に反発心を持っていた。神を信じ、人間が人間たる愚かな行動を嫌う、誇り高い魂。あれも全部流されて、浄化されてしまった。
おかしい。
こんなはずではなかった。
恵理子は空を徘徊するレイスを見て、死神だと眺めていた。まあ、その通りではある。
死者の魂を集めて、自身が強くなろうと墓の上で待っていた。魂が浮かび上がってくるのを、ネズミを狙う猫のように。
それを恵理子は。あの人間は。
忌々しい白蛇の信仰を持ち出して、祓い、浄化して、昇華させた。レイスともども、だ。肉体から既に離れた魂の鮮度は極端に落ちる。
魂は、摘みたてでないと。
まあ、それでも。
この世界の不浄が多少なりとも祓えたのは、よかったと言うべきか。大洪水がかなりの汚れを削り落とした。あそこの大地にはもう瘴気がない。これから森も増えるであろう。森が増えれば、獣が増え、獣が増えれば人間も湧き出てくる。
それまで、何年。
……待ちぼうけだ。
エルフの森は、黒猫ですら侵入できない強力な結界が張られた。あそこは理が違って、黒猫にも毒になる。
いただけない。
エルフの王が生まれ変わったせいだ。純粋無垢で高貴な魂は世界樹に紐ついているから。
勇者も英雄も怖気付き、まともな人間共も、畏怖と感謝から、なぜか地に足をつけ始めた。女神信仰が広まりつつある。諦めの境地にない魂はがっつり肉体と結びついて、早々離れそうもない。この世界の創造神に、己は必要ないと排除されそうな気配も出てきた。
全くもって良くない。
もっと新鮮な弱った魂を連れてこなければ、とは思うものの。
諦められないのだ。
恵理子が。
最近どんどん色づいて、今では桃源郷の桃のように、美味しそうな甘い匂いを振り撒いて、いろんなものを引き寄せている。
猫が、一番最初に目をつけたのに。
もう一つ。
猫が目をつけていた魂もあった。
アレも合わせて手に入れようと、横着をしたのが悪かったのかもしれない。妙な縁が繋がって、変な白蛇も拾ってきた。そのせいで、手を出しにくい状態になった。
あっちの世界の八百万の羽虫共が、蚊柱のように恵理子の周りに群がるのが、地味に不快を誘う。とはいえ、あれらを無視すればこちらが危うい。
特に白蛇の。
水は嫌いだ。
天敵である。
格は落ちるが、もう一個、目をつけた魂がいる。彼方を少し覗きに行ってもいい。そろそろ、堕ちた頃だろうか。
そうだ。本来ならば、それが常なのだ。
猫が目をつけた魂は、必ず猫に堕ちて来る。
それらを捉えたら、恵理子もこちら側に堕ちるだろうか。
徐に顔を洗う。毛を整え、髭を伸ばす。
……まあ、いい。
時間はたっぷりある。
人は死ぬ。
いずれ、空腹は満たされる。
熟した果実ほど、甘いのだから、後ほんの少し待つことは、それほど悪い事では無い。




