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骸の波

 押し寄せる死者の波は、じわじわと聖地を穢していく。


 ガチャガチャと、肉体のない骨に握られた剣と盾は同胞のものだ。


「こいつら……っ!」


「あれは、まさか先の戦いで死んだ……」


 肉が腐り、地に落ちる音。骨がぶつかる音。濡れた土を踏みしめる、粘ついた足音。それが、静かに、確実に、引き摺りながら聖域を侵してくる。


「……退くな! ここを抜かれれば、後はない!」


 叫びながら剣を振るう。斬り伏せたはずの骸が、また立ち上がる。首を刎ねても、腕を断っても、止まらない。


「……くそっ!頭蓋を砕け!怯むな!」


 歯噛みする。


 最初に斬り捨てたのは、かつての上官だった。腐り落ちた鎧の隙間から、白い骨が覗いていた。それでも、その剣筋は、見覚えがあった。


「……っ!」


 受けて、弾き返す。反射で動いた身体が、かつての記憶をなぞる。だが、剣を向けられた瞬間、完全に“敵”になった。かつて仲間であったはずの、面影の残る死体が、戦おうと立ち向かってくる様に、心が折れそうになる。


 同盟国の紋章を羽織ったままの骸骨が、ぎこちない動きで剣を振るってくる。その軌道は乱れているのに、なぜか避けにくい。かつての訓練の癖が、身体に残っているのか。


 受け止め、弾き、叩き折る。だが、倒しても倒しても、数が減らない。後方では、冒険者崩れのゾンビが、槍兵に取り付いている。腐りかけた口で噛みつき、肉を引き裂く。


 悲鳴。


 怒号。


 振り返れば、無数の死者が立ち上がっていた。


 騎士も、兵士も、冒険者も。


 すべてが、敵だった。


「無理だ……!昨日まで仲間だったんだぞ!これ以上死者を冒涜するなんて……!!」


 そして、祈り。


「神よ……!」


 誰かが叫んだ。だが、この聖地は——沈黙していた。


 守護はない。


 加護もない。


 元々神を奉っていたこの地は、血を流しすぎたのだ。


 欲にまみれた神官と穢された聖女。呪われたこの地に、慈悲はなかった。


「……終わりだ」


 誰かがそう呟いた、その時だった。


 崩れかけた女神の像が宙に吹き飛ばされた。


 誰もが一瞬動きを止めた。


 地の底から——何かが唸った。


 足元が揺れる。


「……何だ!?」


 瞬間、地面が裂け、裂け目から噴き上がったのは、熱を含んだ蒸気。


 いや、違う。水だ。


 ただの水ではない。白く光を帯びたそれは、まるで生きているかのように蠢きながら、空へと伸び上がる。飛沫を浴びた者達の傷がシュウシュウと音を立てて塞がっていく。逆にゾンビが悲鳴を上げて崩れ落ちていく。スケルトンは悲鳴も上げられないまま砕け散った。


「せ、聖水……?」


 誰かが呟く。


 水は柱となり、やがて輪郭を持ち始める。長く、竜巻のような胴を持ちながらも、煌めく鱗がまるでガラス細工のように美しい。空を裂くほど長くねじれた角と、長いたてがみ。蛇のようなしなやかさを持ちながら、その体は強靭で全てを薙ぎ倒していく。


「……ド、ドラゴン……ッ!?」


 それは、咆哮もなく、ただ顕れた。


 水晶のように透き通った鱗が光を反射し、戦場を白く照らす。


 だが、次の瞬間、奔流となって大地を抉り取った。


 その場にいた騎士達も吹き飛ばされ、宙を舞う。木々の幹に叩きつけられたものの、そこは聖水だ。気を失ったものはいても、怪我をしたものは直ちに修復される。恐れ慄き、身を潜めた騎士達がみたものは。


 ドラゴンを象った聖水がアンデッドの群れを総舐めして行く。骨は砕け、肉は溶け、声なき叫びが、霧散する。腐った大地を抉り取り、廃墟と化していた神殿も、崩れかけていた聖者の像も何もかもがドラゴンに呑まれ、大きな湖と化した。


 辛うじて、その中央に残ったものは、盛り上がった僅かな台地。宙に舞った水飛沫が雨のように落ちてくる。




「……な、んだ……これは……」


 剣を握ったまま、誰もが大地に伏せていた。伏せて、ただ、見ていることしかできなかった。死が、穢れが、浄化されていく光景を。


 ——やがて戦場に静寂が戻り。


 リーン、と大地を震わせるような音がした。水紋が湖に浮かぶ。



 誰も声を発せない。なぜなら、その場に残された人ならざる気配に威圧されていたからだ。


 たった今出来上がった湖の、その中央に浮かぶ台地に佇む何か。そこにある異常に、誰も視線を離すことができなかった。赤いマントのようなものを纏い、風に揺れる黒髪は光を受けて淡く滲む。


 その隣に女を守るように鋭い視線を走らせる——馬。


 いや。


 額には一本の角を持ち、背には純白の翼を持つ。


「……一角獣……」


 誰かが、膝をついた。


 それを合図にするかのように、騎士たちの間にざわめきが広がる。


「戦乙女だ……」


「聖獣と戦乙女が、顕現された……!」


 最初は畏怖が、それから安堵が、騎士達の心に波のように打ち寄せた。歓喜を上げる。


 だが——それは、一瞬で凍りつく。


 拳を突き上げようとした騎士の手が途中で止まった。


 ぽたり、と。


 赤い雫が、地に落ちた。


「……え?」


 誰かが、声を漏らす。


 戦乙女が、口元を押さえていた。その指の隙間から、血が溢れている。


 まるで、内側から何かが溢れ出しているかのように。


「お、おい……」


 ざわめきが、恐怖に変わる。流れ出た血が、台地を伝い聖水を赤く染めていく。


 その顔が、ゆっくりと騎士達を見た。


 ——その目に、瞳はなかった。


「ひっ………」


 暗い穴からも、滔々と血が流れ落ちていく。そして、耳からも鼻からも、とめどなく。


「あ……っ、あぁ……」


 誰も、動けない。理解が、追いつかない。


 なぜ、戦乙女が血を流しているのか。これは、救いではないのか。


「穢れを……」


 誰かが、震える声で言った。


「この地の穢れを……戦乙女が、すべて……?」


 受け止めている。浄化をしているように見えた。


 その身を血で穢しながら戦乙女の身体が、ふっと揺れる。それを労わるように、支えるように、輝く聖獣が一歩前に出た。息を呑む騎士達。その神々しい姿を目にすれば焼け落ちんとでも言わんばかりに、視線を逸らした。だが、それでもその角から溢れ出す光は塞がれず。


 一閃の光が、音もなく空間を薙いだ。


 それは音もなく、しかし確実に、空間を薙いだ。


 騎士達の体もその光は薙ぎ、通過していったが、しかし誰もが戸惑った。光は浸透しただけで体に異変はなく。


 だが、戦場に残っていた“何か”は、悲鳴を上げた。


 それは、形のない悪意。漂う怨念。無念を残した魂。それらが、一斉に光の粒となって霧散していく。


 そして。


 戦乙女の姿が、崩れ落ちていく。


「待っ——!」


 騎士の言葉が続く前に、乙女の聖獣もまた、光の粒となって消え去った。


 そして——まるで、最初から存在していなかったかのように。


 風が、名残さえも連れ去ってしまった。





 雨。


 ぽつり、と落ちた雫が、やがて数を増やす。


 しとしとと降り始めた雨は、戦場を濡らし、血を洗い流していく。


 忌わしい瘴気はもう無い。


 呼吸が戻ってくる。


 空は幾分明るくなり、音が戻ってきた。


 サワサワと揺れる葉ずれの音。カサカサと移動する虫か、小動物。大地が抉られて出来上がった湖は血の色のまま。


 だが、中央付近できらりと何かが反射した。


「きっと、聖竜が住まわれたんだ」


 二度とアンデッドが蘇ってこないように、監視役としてここに残された、と一人の騎士が呟く。


 そして、気がついた。倒れていたかつての仲間の顔が、穏やかになっていることに。魂が昇華され、天へと舞い上がって行く様を見上げた。



「……還っていく」


 それは、まるで安寧と感謝の気持ちを合わせたかのような、柔らかな光だった。騎士達は黙って胸に右手を乗せ最上の礼を取り、昇華してく魂を見送った。



「……終わった、のか」


「あれは、一体何だったんだろうな」


 誰ともなく呟いた声に、応じる者はいなかった。ただ、雨音だけが静かに降り続いている。


「以前、旅の商人から聞いたことなんだが」


 その声に、何人かが顔を上げる。


「穢れを食らい、魂を喰らい、大地を浄化するものがいると」


「……何だ、それは」


 隣の騎士が眉を顰める。騎士は、わずかに躊躇ったあとで続けた。


「深淵の女神、と呼ばれていた」


 空気が、わずかに冷える。


「女神……?」


「人も、獣も、大地でさえも。穢れあるものは皆等しく屠る者だ」


 騎士はそこで首を振って肩を窄めた。隣にいた騎士が口元を歪めた。


「それは、女神というより——」


 言葉が、途切れる。思い出したくもない、というように。


「会話をしてはいけない。目を合わせてはいけない。触れればそのまま……いや。ただの、噂だな」


 吐き捨てるように言って、頭を掻いた。



 さあ、早く同胞を土に返そう、と努めて明るい声をあげる。仲間達は戸惑いながらも同意し、死体を穴に埋めていく。誰も、その話を笑うことはできなかった。




 あの光景を見た後では。



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