首無し地蔵と乱れ坂
落合宿を出て、国道19号線のあたりで迷子になった。
一人で歩き出して即コレは、ないよね。
ブツブツ言いながら時間を無駄にすること1時間。今日は十三峠まで行く予定だったのだけど、天気もなんだか怪しげで、蒸し暑い。そろそろ梅雨に入るらしく、後一週間だけ待って、と天にお願いする。
馬籠がとても風情があったので、本日の徒歩はちょい退屈気味。こんな時こそ一之瀬さんがいたらよかったのに、と早くも心が折れそう。ダメダメである。
「今頃どこ歩いてるのかなあ」
中津川宿で休憩を入れて、桜餅を片手に地図も手に入れる。相変わらず山道歩行者の数は少ない。
ケータイは持っていても地図を使うとすぐバッテリー切れになるため、使わない。ちょっと整った現代版江戸時代みたいな街並みをそぞろ歩き、自転車やバイクに追い抜かされながら、ひたすら恵那の大井宿へ。
その日の夜から雨が降ってきた。
「ああ、やっぱり待ってはくれなかったか」
温泉も銭湯も、今日は気分で無かったから、宿のシャワーの後で横になる。なんだか疲れた。
「楽しいことの後は、だるくなるのよねぇ。明日の朝は雨降らないといいなぁ」
そんな願いも虚しく、次の日は快晴!とは言い難く、どんよりとした雲が重みを増している。雨の日の山道は危険と承知しているけど、ここに滞在するのも気が重い。雨ガッパもある事だし、ハイキングパンツは撥水性で乾くのも早いから、これくらいの雨なら大丈夫だろう、と出発した。
人生で、これほど自分の行動を後悔した事はない。
私は大岩の上に立ち上がり、馬頭観音様と一緒に震えている最中だ。一体どうしてこんなことが起こっているのか、全くもってわからないけれど。ここ最近の怪奇現象の中でも一番ひどい、恐怖体験真っ只中なのである。
ほんの少し前、私は首無し地蔵の前で雨宿りをしていた。
「すみません、お地蔵様。頭がないので聞こえるかどうかわかりませんけども。ちょっと雨宿りをさせていただきますね」
登りの途中で雨がポツポツと降ってきたな、と思っていたら、あっという間に土砂降りに。雨ガッパを出す暇もなく、ずぶ濡れになってしまったのだ。慌てて小走りになって屋根のある場所がここだったと言うわけで。あまり中にずかずかと入るわけにもいかないので、ちょっと頭を突っ込む形で雨宿り。バックパックからカッパを取り出して着込んだものの、すでに濡れているからあまり意味がない。蒸し暑さで意識が朦朧としてきそうだ。
ボケっとしているのもなんなので、さっとお掃除を開始する。
「猫ちゃんに言われなくてもやりますよ」
祠や磐座の掃除ばかりを押し付けてきた黒猫は、今日は姿を見せない。少しばかりの安堵と不安を胸に抱きながらも、黒猫がいたらきっと催促するだろうなと思い、自主的に始める。すっかり黒猫の奴隷に成り下がっていると苦笑する。
おやつの甘栗をお供えして、塩を盛り、ペットボトルの水を備えてあった器に入れる。中津川で「お供えしたものは、しばらくしたら取り下げても構いませんよ」と言われたので、安心してお供えできる。
そうしてお参りを済ませて振り向くと、坂の下から骸骨が歩いてきた。
「……?!」
理解できずに目を瞬いて擦り、もう一度凝視する。
骸骨が、ボロボロの赤いマントをつけて、剣を片手に歩いてくる。あちらも、ちょっと狼狽えているように見えた。かくりと顎が開く。ちょうど、ペットボトルの口に風を当てたような、吹き抜けの音が、骸骨の口から漏れた。
『ヒョオオオオォォ!』
「きゃーーーーーっ!?!?!?」
思わず、手にしていたペットボトルを骸骨に投げつけると、見事に頭にあたり、スコンと頭蓋骨が吹っ飛んだ。
「きゃーーーーーっ!?」
一目散に坂を駆け上がり走る私を、頭のない蓋骨が、ガッシャガッシャと追いかけてくる。
「いやあァァァッ!!?」
乱れ坂を駆け上がる乱れた私。
乱れなんか気にしてる場合じゃないわぁ!息が切れて、膝が笑う。もうダメ、走れない、とふらついたところで、小さな祠が目に入る。妻神と彫られているのが見えて、祓詞を思い出した。
カバンにつけた青銅の鈴がリーン、リーンと乱れ打つ。
「祓えっ、給い、清めっ給え!祓え給い、清め給え!祓え給い、清め給え!」
そう言いながら、ヒィハァと息を継ぎ、石の祠に手を触れて通り過ぎる。そしてチラッと後ろを振り返る。振り返っちゃいけないと、何度も言ったのに。
やっぱり私は振り返ってしまったのだ。
もう、性としか言いようがない。三歩歩いたら忘れる鳥頭。突然、石の祠が空中に吹っ飛んだ。
「ヒェッ!?」
間欠泉に吹き飛ばされたかのように、綺麗な放物線を書いて地面に落下した。
それを合図に飛び出してきたのは、赤。真っ赤な、血。血。血。
とんでもない量の血の海がうねりあげ、竜のような顔になり、ゴウっと流れていく。骸骨は飲み込まれ、坂を流されていく。
『行け』
顎が外れるほど口を開き、腰を抜かしそうになりながらも、頭に響いた声に私はまたしても駆け上がりだした。あまり速くは無かったかもしれない。もうだめ、もうダメ、と言いながら涙を流して走る。
今度は振り返らない。絶対振り返らない!
遠目に、赤いよだれ掛けをつけたお地蔵様が目に入った。大岩の上にちょこんと立っている。
「馬頭観音様!」
あそこまで行けば、助かる!
なんの根拠もないけれど、私は馬頭観音様に縋り付いたのである。
そして泣き喚くこと数分。
走りすぎたのと、泣きすぎたのと、訳がわからないのとで気持ちが悪くなり、目の前で吐いてしまいました。
ごめんなさい。磐座にゲロ吐くなんて、なんて罰当たりなことを。
散々吐き終えて、もう何も胃に残っていない状態になってようやく落ち着いた。震える手でブラダーから水を出し周りを清掃して塩で清めると、眼下を眺める余裕ができた。
血の海地獄で暴れ回るゾンビと骸骨。訳がわからない。
血の匂いが甘く重く、思わず鼻と口を手で塞ぎ、なるべく息をしない様にする。
また吐きそう。
逃れようと必死のそれは、しかし生き物のように蠢く血の龍からは逃げられそうにもなく、バタバタと倒れていく。ゾンビは溶けて骨になり、骨はバラバラになって沈んでいった。
ほどなくして血の海が地面に染み込んで辺りが静かになると、まるで何事もなかったかのように観音坂が戻ってきた。鳥の声も虫の音も、蒸し蒸しした暑さもシトシト降る雨も。異物は何も残っていない。匂いすらも、まるでなかったことにされた。
「……」
言葉もない。
一体あれはなんだったのか。
岐阜の山奥でゾンビやマントをつけた骸骨に遭遇する機会が一体どれだけあるだろうか。熊に会うより、確率は低いと思う。
「とりあえず……。馬頭観音様。助けていただき、ありがとうございます。あと、諏訪のおじいさん。多分きっと、龍神様ですよね、それと、妻神様も。お守りいただきありがとうございました。私、これからも神様をお見かけしたら、お掃除しますね」
深々と頭を下げて、磐座から滑り降りる。
もう一度頭を下げて、もう後ろは振り返らなかった。
でも。
「にゃあん」
何気ない顔をして隣を歩く黒猫を横目で見て、私は軽いため息をつく。そばにいる気配はしていた。首なし地蔵のところから。
私には、この子が悪霊なのか、神様なのかわからない。
ちょっと怖いけど、ちょっと頼もしい。
もちろん、もうただの可愛い猫としては見ていない。
でも、なぜか。
旅の仲間のような気がして。
ひょっとしたら、この子もまた、私を助けてくれたのかも知れない、と考えて。
悪くない、と思ってしまったのも本当のこと。
降りしきる雨が、私の恐怖も骸骨のことも、洗い流して行くようだった。
……いや、忘れることは到底できないけど。




