夢から覚めても
馬籠峠からの道のりは、特に何事もなく、江戸の街並みを残した静かな街道を下っていった。
途中、諏訪神社があったので、立ち寄った。
おじいさんからもらった水晶をダメにしてしまったことも伝えて、でもきっと身代わりになってくれたのだと感謝する。ふわりと肩が軽くなったのを感じて、ありがたく再度柏手を打つ。
一体いつから体感できるようになったのかしら。変ね。
隣を見ると、一之瀬さんも何やら祈願中。一之瀬さんは馬籠峠のそばの熊野神社でも、何やら真面目にお祈りをしていたので、私に感化されたのかもしれないわ。道祖神も見かけると感謝してたし。
よくある石畳の道も、歩けばそれぞれ趣が違って楽しい。下り坂だったこともあって十曲峠から落合まではわずか40分ほどで到着。
とうとう私たちの二人旅も終点に達した。
「最後までお付き合いいただいて、ありがとうございました」
「そんな。いきなり他人みたいな態度、取らないでくださいよ」
「だって、元はと言えばカモシカ騒動で、私が怖がりな態度をとったからだし」
「それは最初だけ。僕は恵理子さんとの旅、とても楽しかったですよ」
「……私も、とても楽しかった。本当にありがとう」
「……なんなら、これから京都までの旅路もご一緒してもいいんですけど」
「ふふ。ありがたいと思いますけど。この旅は断捨離もそうですけど、自分探しの旅でもあるので。やっぱり自分で歩くことに意義があると思うの。きちんと自分を見直して、それから新たに自分の人生を歩みたいから」
「……そう、ですか。では僕が、口を挟むことじゃないですね」
「でも、一之瀬さん。あなたが一緒に旅をしてくれてとても助かったのは本当。不安だったのも、怖かったのも、あなたがいてくれたから乗り越えられたんだもの」
「恵理子さん」
「なので今日は、私の奢りで。パァッと美味しいものを食べましょう!」
「えっ、まだ食べるんですか」
なんだかんだ言いながら、朴葉寿司を食べ、やっぱり一之瀬さんはワインを飲んでいた。様になるわねえ。
今日で、二人旅は終わり。
諏訪神社でお参りした時、猫ちゃんがいた。
東京からずっとついてきていたあの黒猫が、金色の目で、ただ一之瀬さんを見ていた。林の中にある石の上に座ってじっと見てた。
ああ。
私は、この優しい親切な人を、巻き込もうとしている。
そんなことは、させない。
諏訪の神さま。姫神さま。素敵なご縁をありがとうございました。どうか彼を巻き込まないよう、お守りください。彼に厄災が及びませんよう、お願いします。
『遠ざけよ』
風が私に囁いた。
そうだ。これは私自身の旅。彼に依存していては、久志さんの二の舞になる。自分の足で、立たなくては。
大丈夫。
まだ、歩ける。
私はまだ、大丈夫。
「連絡、します」
一之瀬さんが、まじめな顔で突然、私にそう告げた。俯きかけていた顔を上げる。
「え?」
「えっと、写真も送りたいし。これでお別れなんて、寂しいこと言わないでください。住所を伺ってもいいですか?」
嫌だわ。思わず、ときめいちゃったじゃないの。罪な人ね。でも嬉しい。これで途切れてしまう出会いではなかったことが。またね、と言えることが。
私を繋ぎ止める、言葉が。
宿に戻って荷造りをする。
明日からまた一人旅が始まる。またコンビニのおにぎりに逆戻りか、と思うとため息もでる。でも、中山道六十九次のうち、今は四十四番目。つまり、後一週間もあれば京都の三条大橋に着く予定だ。
「体力はついた。贅肉も減った。ん、でもこの四日の旅で体重は増えたかも…」
掴める腹の贅肉は、今や見る影もないーーことはないけど、半分以下だ。広辞苑から雑誌の厚みに変わった。そういえば、久志さん《あの人》のことを考えることも減った。
「……まあ、それどこじゃなかったと言うのもあるけど」
何かに取り憑かれているんじゃないか、と言う懸念がある。特に猫。餌をあげたのは、やっぱり間違いだったのかな。
「でも、熊から助けてくれたわ。……それに、祠とか磐座の掃除とか、別に悪いことはお願いされなかったし」
どちらかといえば、良いことだったと思うんだよねえ。掃除して怪奇現象をお返しに貰うってどうなのよ。
「猫とは全然関係なかったりして……やっぱり心の問題かしら」
ふあぁ、とあくびをひとつ。
私は布団に潜り込んだ。
ハタ、と目を開けると中山道の小道だった。この道は覚えがある。いつの間に歩き始めていたのかしら。石畳の道を一人で歩いていると、目の前に白い大きな蛇がとぐろを巻いていた。
青い目の蛇。見覚えのある瞳。
「………おじいさん?」
「バレたか」
蛇がニヤリと笑って、しゅるりと老人の姿になった。
「早々に、玉は砕けたのう」
「あ、そうでした。ごめんなさい。せっかくいただいたのに」
「心配せんでもいいだに。役に立って何より。どれ、ちと貸してみぃ」
砕けた水晶は紙袋にしまってあったので、そのまま渡すとおじいさんはふう、と息を吹きかけた。水晶はまるで砂のように細かい粒になって吹き飛ばされてしまった。
「なぜ、ここに来た」
「え?」
「なぜここにおるだに?」
「え?ええと、私……。中山道を歩いて、落合宿で……あれ?ここは……?」
「ふむ。……諏訪の、どうする?」
背後で、風が揺れた。
——じい。
全身に鳥肌がたった。
振り向いてはいけない。
この気配は、あの時と同じ。何かがいる。見てはいけない。振り向けば、戻れなくなる。
——迷い子だ。じい、皆が気にかけている。 帰してやれ。
「やれやれ。蛇使いが荒いのう」
——心配せんでも良い。其方の願いは叶えられた。
願い?
スゥッと気配が消えて、どっと汗が噴き出す。
今の、もしかして……?
「道は、選ばねばならん」
「おじいさん?」
「夢を選ぶか、現を選ぶか。お主が決めよ」
「あちらか、こちら……?」
「立ち止まるな。地に足をつけい。道道、お主を見ている目は多い。わしからはこれを」
「……これは、熊鈴……?」
私が持っていた熊鈴が、青銅の鈴に変わっていた。前の風鈴のような澄んだ音より、低く深い。リーンという音が耳に届く。辺りに静寂が訪れたような音。
「わしの家が掃除されたのは久々じゃった。ありがとよ」
「家?」
「不遜な輩が、勝手にわしの家に入ったので困っておったでな。ついでにお主に鈴を預けた」
思い出すのは祠の蜘蛛の巣。鈴を手に入れたのはあの時だ。
「あの祠……」
「今度は、鰻と酒を待ってるずら」
おじいさんの長い白髭がひょひょひょ、と揺れた。
「鰻と、お酒…?」
自分の口から出た言葉で目が覚めた。
どうやら夢を見ていたようだ。スズメの声が聞こえる。まだ陽は昇っていないけど、空が白みかけていた。
「なんか、夢を見ていたんだけど……なんだったかしら」
起きあがろうとして、何かが手に当たる。枕元に青銅の鈴が転がっていた。
「……鈴」
同じ頃、一之瀬も起き上がっていた。
夢を観たのだ。
白蛇と黒猫が対峙している所を眺めていた。ひどく怯えていた自分がいて、逃げたいのに逃げられず、足がその場に張り付いていた。
『遠ざけよ』
頭の中に声が響く。何を、と答える。
『去ね』
『選べ』
訳がわからず何を、と再び答える。
視線の先に妻がいた。
僕をみて、笑う。顔は白く、笑みは歪で。僕を置いて行ってしまった時の姿のままで。
「私をみて」と妻が言う。
僕の目は涙に溢れ、妻の姿がぼやける。
ひどい事故だった。妻がまだ、あの時のまま縛り付けられているのかと、ひどく胸が痛む。
いや、僕が、その姿を縛り付けているのか。
「美咲……僕は、」
『選べ』
同じ問いが、頭に響く。
それが何を意味するのか、わかってしまった。死んだ妻か、あの人か。
それを選べと言っているのだと。
『振り返ってはいけない』
そこで完全に理解した。声の主は、白蛇と黒猫だ。互いに睨み合っているのに、彼らが観ているのは、僕の心か。
意を決して、僕は、選んだ。
旅を終える準備をして、宿を出る。朝の空気はじとりと湿り気を帯びて、そろそろと梅雨の気配が忍び込んでくる。まるで僕の心の中のようだ、と苦々しく思う。
「今日は、蒸し暑くなりそうだ」
けれど、時間は立ち止まってはくれない。過去は戻っては来ないのだから。
「出来ることを、しなければ」
一之瀬も覚悟を決めた。




