隣を歩く距離
石畳の道は、山道のように苔むしていない。
緩やかに続く坂道を登る、私たちの足取りは軽い。私の隣には一之瀬さんがいる。いつもより言葉が少ない。それでも気まずい雰囲気はない。
チラリと彼の横顔を見る。
私がほんの少し黙っているのは、今日が二人旅の最後だからだ。
寂しい。
ほんの数日の旅だったのに、こんなにも心が寄り添ってしまった。いや、寂しさよりもきっと、一人になるのが怖い。
一之瀬さんといると、黒猫が来なかった。それがなぜか、とても安心できて。
黒猫は、熊から助けてくれた。毎回おかしなことを要求してくるけれど、別に嫌な気分ではなかったはずなのに。
怖い。
訳のわからないことに巻き込まれているように思えて。
それが、黒猫のせいに思えて。
妻籠宿は、思っていたよりずっと静かだった。人はいる。観光客も、店の人も。
それなのに、どこか遠い。声は聞こえるのに、すぐ隣で話しているはずなのに、薄い膜を一枚隔てた向こう側みたいに、現実感がない。聞こえないはずの何かが、耳の奥で聞こえている気がする。
「……風情があっていいですねぇ」
そう言うと、一之瀬さんは小さく笑った。
「昔のまま残ってるからね。こういう場所は好きだよ。落ち着く」
相変わらず、カメラは首から下げているのに、今日はあまりシャッターを切らない。
「でも、今日はシャッター音が聞こえないですよ?」
「……今日は、いいんだ」
「こういう場所が好きなのに?」
「うん。気分が乗らないっていうか」
「そっか。人が多いものね」
珍しい。そう思ったけれど、それ以上は聞かなかった。そういう気分の時ってあるもの。
話したくない気分とか、歩きたくない気分とか。
私たちはそのまま、ゆっくりと坂を上る。もう歩くのもすっかり慣れてしまった。足のむくみも、筋肉痛も遠い昔のことのよう。
ふと、木々の隙間から光が差し込む。新緑が眩しい。
春の柔らかい日差しが、肩口に触れる。
——その瞬間。
輪郭が、ぼやけた。
自分の腕が、視界の端で淡く滲む。まるで、水の中にでもいるみたいに。
その光の向こうに、何かが見えた気がして、手を伸ばそうと、そう思った次の瞬間——
「……いっ」
強い力で腕を掴まれた。
見上げると、一之瀬さんがいた。少しだけ強張った顔で。
「あ……っと、すみません。強く掴みすぎましたか?えっと、そこの段差、見てないと転びますよ」
ぱっと手を離される。
「恵理子さん、案外そそっかしいから」
「えー、そんなことないわよ」
「ちゃんと前見て歩いて」
「もう。ちゃんと見てますよ、前。ちょっと眩しかっただけよ」
そこには、いつも通りの景色があった。石畳も、町並みも、自分の手も、ちゃんと“ある”。掴まれた腕に温もりを感じながら、そっと腕をさすった。一之瀬さんは少しだけ視線を逸らして、
「……栗きんとん買って、休憩の時に食べましょうか」
と笑った。
「歩きながら食べるのは行儀悪いかな」
「さっき五平餅食べたでしょ」
「だって、美味しそうなんだもの」
「食いしん坊ここに極めり、ですねぇ」
「ちゃんと歩いて消費するから大丈夫なのよ」
結局、私は栗きんとんを買って食べ歩き。一之瀬さんはコーヒーを飲みながら。
少しだけ、思う。
もしかしたら、一之瀬さんも同じことを考えているのかな、と。まだ一緒にいたいと思ってるのかな、なんて。馬鹿な自惚れをして、ふふっと笑う。
「楽しいですよね、二人旅」
そう言って一之瀬さんに笑顔を向ける。
――見失うかと思った。
恵理子さんが、いつになく静かで気が気ではなかった。
待ち合わせの時間に、恵理子さんの姿が目に入った時、彼女は木々を見上げていて。その姿が、今にも透き通って消えてしまいそうだった。カメラに収まっていただけの金色が、キラキラと彼女を包んでいる。
目の錯覚かと、眼鏡を拭く。
そこにいる。ちゃんと、僕の目の前に。――金色の光と共に。
首筋にチリチリとした視線を感じる。
あいつが見ている。
気にするな。恵理子さんは隣にいる。肩が触れ合いそうなくらいの距離にいる。連れて行かれたりはしない。そんなことはさせない。
でも。
鳥の声が聞こえても、遠くの雑音に聞こえる。恵理子さんがあちらの店、こちらの店と興味津々で歩くそのすぐ後を、横を、前を歩く。見失わないように。
次第に自分の感覚がぼやけていくようなあやふやな感覚。隣を見る。確かにいる。
僕は、何を不安に思っているのか。
黒猫が本当にいるのだとしても、人間を一人、突然手品のように隠すことなどできるわけがない。そこまで僕は、心霊現象を信じているわけじゃない。
ただ。
ある日突然、妻が消えてしまったあの日のように。
この人が僕の前から消えてしまったら。
——怖い。
もうこれ以上、誰かを見失うのは。
男滝・女滝で涼を取り、馬籠峠へ向かう山道に入った。坂道は思っていたよりきつくて、息が上がる。足元に集中しないと転びそうだ。
「ふぅー。やっぱりちょっと食い意地張って食べ過ぎたかも」
「だから言ったでしょ。大丈夫ですか?」
「うん、頑張る」
そう答えると、一之瀬さんはほんの少しだけ前に出た。その背中が、妙に頼もしく見える。
瞬きの間に、視界が滲んだ。
風が止まる。葉は揺れているのに、音がしない。足元から沈んでいく。何かがねっとりと絡みつく。
はく、と息が漏れる。
一之瀬さん、と呼んだ声が聞こえない。先に行ってしまう。
置いて行かないで。
待って。
息が切れて、足を止めた。自分の耳に響くのは私の息の音と。
チリン——
どこかで熊鈴の音がした。バッグを見る。鈴はまだそこにある。なのに、揺らしてみても音がしない。
耳の奥に直接、鈴の音が響く。心臓がぎゅっとなる。不安が腹の底から湧き上がってくるような不快感。
目の奥が痛い。
誰かに見られている。
思わず振り返ってしまった。視線が泳いで、不快の正体を探す。
——いた。
少し離れた道の真ん中に、黒猫。
金色の目が、じっとこちらを見ている。
「にゃあん」
またこの子は、私に訴えてくる。行きたくない。
でも。
どこかで、誰かが助けを求めているのだ、と私を誘う。
「……今度は、どこへ」
「恵理子さん?」
はっとして振り向くと、一之瀬さんがすぐそばにいた。肩を掴んでいる。風が肌をそよいで不快感を拭い去る。鳥の声が、木々の香りが、五感に戻ってきた。
「どうかしました?」
「あの……あそこに」
もう一度振り返る。
いない。
さっきまで確かにいた場所には、何もいなかった。
——置いて行かれた?
「気のせい、みたい」
そう言うと、一之瀬さんは少しだけ間を置いてから答えた。
「……気のせいですよ」
そう言って、私の肩を三度、ポンポンポンと叩く。私は一之瀬さんの顔を見上げる。心配そうな瞳が、眼鏡の向こうから覗き込んでいる。
「先に行ってしまったのかと思ったわ」
「……僕はずっと横にいましたよ」
「……ですよね」
ニコリと笑うと、一之瀬さんもふわりと微笑んでくれた。
私たちは、また歩き出す。
坂は続く。どこまでも続く。碓氷峠の方がきつかったかな、と考える。いや、和田峠の方が怖かった。一番怖かったのは、鳥居峠だ。
「無駄口も叩けないわ」
息も切れ切れでそういうと、一之瀬さんも苦しそうに笑う。
「食べ過ぎましたね」
「ダイエットしなきゃ」
とうとう一ノ瀬さんは立ち止まって大笑いをした。この人は笑い上戸だ。息が上がって足が重くなるのに、私も笑った。誰かと一緒に歩く道は、こんなにも違うものなのだと、今さらながら思う。
「……楽しい」
ぽつりと呟く。
「こうして、一之瀬さんと歩くの、とても楽しい」
そう言った恵理子さんの顔は、泣きそうだった。
「……そうですね。僕も楽しいです」
この道がずっと続けばいいのに、なんて考えてしまうほどに。
視線を感じて上を見る。黒猫がじっとこちらを見ていた。
恵理子さんではなく、僕を見ている。
「にゃあん」
口はそう告げたけど。僕には届かなかった。
見てはいけない。気づいていることを、知られてはいけない、と思ったけど。
ほんの少しだけ歩幅を詰める。恵理子さんの腕をとり、前を指差す。
恵理子さんのすぐ隣にいるのは、僕だ。触れられるのも、僕。
お前じゃない。
ほんの少しの優越感と、焦燥感が入り混じる。
——渡さない。
口に出すことはない。言うべき事じゃない。
けれど。
「……恵理子さん」
名前を呼んで、息を呑む。
それから、何でもないふうに笑顔を見せた。
「ほら、もうすぐ頂上ですよ」
指の先には馬籠峠の頂上だ。
五平餅大好き。




