旅は道連れ、影は離れず
今日も今日とて、私は歩く。
一之瀬さんと歩く中山道はとても気楽で、とても楽しい。私一人で歩くよりもあっちに寄ったりこっちに寄ったり。珍しい鳥の鳴き声が聞こえればそちらへ行き、変わった花が咲いていればそっちへ行き。
物知りな一之瀬さんは、山の幸にも詳しかった。
「ほら、これがコシアブラの木だよ。食べるのはこの部分」
そう言って、ひょろっとした若木を指差す。つるりとした白い木肌。生で食べるとえぐみが強いから見るだけね、と手に取ろうとした私に注意を促す。
わかってますよ!天ぷらのも、ちょっと苦味があったし。山菜はアク抜きしてから、が私の基本。
「あっ、またピッピロピー」
「キビタキだね」
「ケタタタタタ」
「カワセミ」
「ピーヒョロヒョロー」
「え、それは何?鳶かな?」
「オオルリでしたー」
「オオルリはピールーリーだよ」
「えーそうかなあ」
くだらない会話を交わしながら、一之瀬さんは写真を撮っていく。時々私のことも撮っているのは知ってるけど、恥ずかしいのでそっちは見ない。気づいていないふりをする。
あ、そうそう。私やっぱりケータイを持つことにしました。と言っても緊急用。一之瀬さんと別れた後にまた一人旅を続ける予定だから、念のためというのと、連絡先の交換のため。旅の縁は人の縁、袖すり合うも他生の縁。
つまり、これからもお友達でいましょうよ、ということで。
もちろんこれで子供たちに連絡を入れたら、ど叱られました。
「どれだけ心配したと思ってるの!失踪届を出そうかと思ったよ!」というのは日菜子。心配性だからねえ、あの子は。毎回泊まるとこで一言でもいいから連絡して!と約束させられました。
クマとの遭遇は内緒にした。絶対今すぐ戻ってこいって怒られるから。
不思議な黒猫について話したら、野良に餌をやるなと怒られた。なんだか怒ってばっかりね。 渉の方は、何かあったらニュースになるから心配はしてないとのこと。まーね。狭い日本、急いだところで情報はすぐ入るもの。
その間、一之瀬さんは爆笑してた。何がそんなにおかしいのかしら。
木曽の桟は赤い橋がそうなのかと思いきや、山際にあるのがそれなのだと言われた。今でこそコンクリートで固められ、車道になっているけれど、昔は丸太を蔦葛で縛ったもので、そこを断崖に張り付くようにして渡らなければならなかったんだとか。
「根性あるわねー、昔の人」
「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、の精神だったんじゃないかな」
「それ。ヨーダも似たようなこと言ってたわよね」
「え?」
「『|Do or do not. |There is no try』って同じような意味でしょ?」
「えぇ?そうかなぁ」
「崖っぷちもフォースと共にあれ」
そしてまた一之瀬さんは爆笑した。
初めて恵理子さんと出会った時、ひどく何かに怯えた顔をしていたので、声をかけたら、カモシカに目が四つあると怯えていた。うっかり笑ってしまったけれど、彼女にとっては恐怖体験だったようだ。あれは眼下腺だよと教えたら首を傾げながらそうなの、と肩を落としていた。
デジタルデトックスのためにケータイも持っていないと言われて、耳を疑った。初めての一人歩きで山道で、自殺願望でもあるのかと。春は熊も猪も活発になる。山の天気は変わりやすいし、霧が出て迷子になったらどうするの。
クマよけスプレーはバッグの中にしまいっぱなしだったというし、バックパックにつけられた熊鈴は、確かに音は綺麗だったけど古ぼけた小さな鈴。なんというか、儚げで今にも消えてしまいそうな印象があった。
目を離せば背景に溶け込んで、見えなくなってしまうような危うさがあって、これはちょっと危険かなと他人事ながら心配したのだ。
実際話し始めたら、あの印象はなんだったのかと思うほどよく喋る明るい人で、ちょっと安心した。東京から一人でここまで歩いてきて、だいぶ体力がついて、軽井沢で生まれて初めてナンパされたと喜んでいたのがおかしい。30代に見られたの、ってそうか。実際はそれより上なんだなと、内心驚いた。
妻を亡くしてから、ずっと調子が狂っていた。酒に逃げて、気づけば何年も経っていて。女性と付き合う気にもなれず、寄ってくるのも鬱陶しくて—— 気がついたら、山にいた。
彼女といると、息がしやすいことに気がついた。話すことは軽口であまり意味がない。けれど僕の話を興味津々で聞き、鳥の鳴き声をカタカナで真似してとても楽しそうだ。しばらくして、最近離婚したのだと聞いた。
ああ、そうかと腑に落ちる。
あの儚さは、心に穴が開いているからだ。大事にしていたものがある日突然こぼれ落ちた時の虚無感は僕もよく覚えている。よく喋るのは、それを誤魔化そうとしているからか。
そのせいで情緒不安定なのも理解できた。僕は酒に溺れたけれど、10年かけて立ち直った。彼女はきっとまだ傷がじくじくと痛んでいるのだ。だから僕は、二、三日だけでも一緒にと提案した。一人で歩くより気がまぎれるだろうから。
途中、彼女の子供さんが30半ばだと聞いてさらに驚いた。ということは少なくとも五十過ぎ。全く見えない。年のことは詮索しないけど。美人、というわけではないけれど、可愛らしい。ナンパ君じゃないけれど、実際30代にしか見えない。とても魅力的な人だとほんの数日で魅了されたのに、旦那さんは一体何が気に入らなかったのか。若い女を作って逃げた、と聞いたけど、彼女だって十分若く見えるというのに。
まあ、人の好みはそれぞれだ。僕があれこれいう立場にはない。ただ、今彼女が楽しいのであれば、僕も嬉しく思った。
けれど、彼女の現実逃避だと思っていたことが、逃避ではない疑惑が上がってきた。
昨夜、布団に入る前に塩尻峠から撮っていた写真を見た。恵理子さんに出会ってからの写真。恵理子さんの周りに光の輪ができていた。どの写真を見ても、彼女の周りに光が滲んでいる。
これは一体……。
そしてその彼女の写真に、常に黒猫が写っている。最初は木々の影か何か、猫に見えるだけなのだと思っていた。
何かがおかしいと気付いたのは、カモシカの写真だった。
僕の肉眼では、あれは確かにカモシカだった。なのに、カモシカは、写っていなかった。
代わりに——滲んだ空間の奥、木の上に黒猫がいた。
金色の目が丸く光っている。それが恵理子さんの姿を捉えていた。
あの時の彼女の狼狽えようは尋常じゃなかった。
それから、鳥居のオオタカ。最初の写真はオオタカだ。凛々しく鳥居に止まっていた。
それが、恵理子さんが視認したところで、こちらに襲いかかってきた。
驚いてカメラを庇い転げたところでシャッターを押したらしく、何が映っているのかわからなかった。なのに、そこにも、黒猫がぶれずに映っていた。今度は、僕の方を見て。
カメラを持つ手が汗で滲んだ。
あの日のオオタカは、明らかに僕を狙っていた。まるで、邪魔をするなというように。石を投げた僕に見せた顔は、もはや鳥ではなかった。
あからさまな憎悪と、殺意。
次に写っていたのは、赤く燃え上がる戦地のような場所。その後ろには御嶽山が写っているのに瓦礫の山が下方に写っている。変な獣の死体の山。そして、そこにも猫がいた。
せせら笑うように、黒猫が口を開けていた。
あの後で、恵理子さんのポケットの中で龍神からもらったという水晶が、砕けて粉々になっていた。慰めるために、言い訳じみたことを言った。
なんでもないような顔で話題を変えて、その場を急いで離れたけれど。
彼女の目は、これを見ていたのではないだろうか。
そう思うと、写真の中の黒猫が歪な気がしてきた。
黒猫の視線があの日から纏わりつく。
殺意はない。ただ、観察している。
見てはいけない。
気づいていることを知られてはいけない。
恵理子さんには、言わないほうがいいだろう。そうでなくても過敏になっているのだから。
あいつから、引き離さなくては。
—— どうやって?
読んでいただきありがとうございます。感想・ブクマもお待ちしています。




