見えるもの、見えないもの
鳥居峠は、杉並木の草道が続く。
鎮神社で柏手を打つ。——どうか熊に会いませんように。
今日も全く人がいない。この時期、新緑を楽しむ人が多いと聞いたんだけど、今日はあまり天気も良くないし、そう言うことなのかもしれない。
それでも、二人で歩く山道は別格だ。ちょっとした発見も共有できるし、別視点の見方もあって楽しい。時々出てくる熊よけの鐘を鳴らし、ビクビクしながら歩くと、一之瀬さんは笑いながら歩けばいいんだ、とわっはっはと笑って歩き、途中で息が切れていた。変な人。
中央アルプスの絶景も、今日の曇り空ではよく見えない。残念。
鳥居峠は古戦場跡地でもあるので、物騒な名前の沢があり、なんだか霧も出てきて嫌な予感が。一之瀬さんが「動物のフンが」といった先で、木の幹にガリガリと削られた爪跡を見つけた。ヒィ。
とりあえず、今日は前回の経験を活かして(?)クマ避けスプレーはポケットに入れて準備万端にした。愚かなことに私、パッケージも開けていなかったので、包装も外しておく。
「私の熊鈴は小さいけれど結構よく響くのよ」
とリュックにつけた熊鈴を見る。チリン、チリーン、といい音を鳴らすと、どこかで鳥が呼応した。
途中にある道祖神様は双体道祖神。
「おはようございます、道祖神様。今日もありがとうございます。熊に会いませんように」
道祖神を見かけるとつい声がけをする私を見て、一之瀬さんはニコニコ顔。どうやら一枚パチリと撮ったらしい。
「最近はなかなか見ない光景だよ」
「一人で歩いていると、つい。一言も喋らない日とかもあって、このままだと言葉を忘れてしまうと思って」
「一週間や二週間じゃ、そんなことにはならないと思うけど。まあ、悪い習慣ではないよね。特に一人旅なんて。これまで無事でいられたのも、道祖神のおかげかもしれないよね」
「……それは、考えなかったけど、そうですよね。私お願いばっかりして感謝してなかったかもしれないわ」
そうこうしているうちに、御嶽神社の鳥居が見えてきた。こんな山頂に建てるの大変だったんだろうな、と考えていたのだけど。
鳥居の真ん中に大きな鳥が一羽、留まっているのが見えた。
「一之瀬さん、あんなとこに大きな鳥が……」
一之瀬さんがカメラを構えてパシャパシャと連続するのを見て、もう一度鳥を見上げると、その鳥が大きく羽ばたいたのが見えた。
「……ひっ!?」
鳥の顔が人間。孔雀のような長い尾が扇のように広がった。鳥居を止まり木のように掴んだその足にある爪は熊を彷彿とさせる。
「あぶない……っ!!」
叫びとも鳴き声とも言えない声が、警鐘を鳴らす。
人面鳥が一之瀬に向かって襲い掛かろうと鋭い爪を向けた。思わず足元の石を掴み、人面鳥に投げつける。
「えいっ!」
「うわっ!?」
一之瀬さんも鳥が襲いかかってくるのに気がつき、慌ててカメラを胸に隠して横に転がる。一之瀬さんを掴み損ねて、地面に降り立った鳥に向かってもう一度石を投げると、鳥の額に石が当たった。
—— ギエェェッ!
石に当たってますます激怒したのか、人面鳥は吸血鬼のような牙を剥き出しにして威嚇し、飛び上がった。
突風に吹き飛ばされそう。
難を逃れた一之瀬さんが、転がるように私の隣にやってくると、「熊よけスプレー!」と叫ぶ。その間に一之瀬さんは枝を拾って応戦する。
そうだった、と慌ててポケットを探り、熊よけのスプレーを取り出す。
「一之瀬さん!そいつの羽ばたき止めないと使えない!」
「わかった!」
一之瀬さんはすぐさま石を拾って翼に集中投石。百発百中である。すごい。
人面鳥はたまらず地面に降り立ち翼をたたみ、今度は飛び跳ねながら、こちらに爪を立てようと近づいてくる。
風は微風。その距離5メートル。くらい。多分。
安全弁を抜くと、鳥に向かってスプレー口を向ける。
「一之瀬さん、伏せて!息止めて!目閉じて!」
まるでスローモーションのように、私はスプレーを構え、人面鳥の顔を目掛けてプシューっと風に乗せた。
——プシュー、なんてものじゃなかった。
熊よけスプレーは、ドシャーッと滝のような勢いで噴き出した。
こんな小さなボディに一体何が詰まっていたのか。
ほんの数秒。ボトルは空になったみたいで噴射を止めた。顔を背けていた私は、恐る恐る薄目を開けて人面鳥のいた場所を見る。
人面鳥は、ガラスが砕けた後のようにキラキラと光エフェクトをかけながら、跡形もなく消え去っていった。
見間違いでもなんでもない。
消えた。
鳥じゃない、何か。
カモシカじゃない、何か。
みんな、消えた。
「……っ、あっ……!」
私は、狂ってしまったのだろうか。
「い、いやぁ、驚きましたねぇ。今のオオタカですよ、オオタカ。繁殖期だからかなあ、いやびっくりした!きっと巣が近くにあるんでしょう」
「え……?」
「僕のカメラレンズが反射して、興奮させてしまったのかもしれない」
「え、いえ、今の……今のは、顔が、人で、鷹、なんて大きさじゃ」
人の倍ぐらいの大きさがあった。
「いやいや、カメラのレンズに納めましたよ。あれはオオタカのメスでしたね!」
「え……」
「それにしても、ちょっと過剰攻撃でしたかね。熊スプレー。僕もパニクって酷いことしちゃったな。石まで投げて……鳥愛好家としてダメな行動でした。ああ、死んでないといいんだけど」
見えていなかった。
一之瀬さんには、普通の鳥として見えていた。
でも私には――。
「にゃあん」
黒猫が、いる。
——後ろに。
振り向いては、いけない。
振り向いたら、今度は。
それなのに、どうして私は、振り向こうとしているのか。
なぜ——。
「恵理子さんは大丈夫でしたか?ええと、まずは手を洗って。はい、手を出して。水洗いしましょう。ウェットティッシュもありますから、服も拭いたほうがいいかな。タオル、タオルと。あ、そうだ替えの上着とか持ってますか?今のスプレーで服に付着してるかもしれないし、替えがなければ僕のを使ってください。……恵理子さん?」
一之瀬さんが呑気に声をかけて、途端に空気が動き始めた。
はっと我に返る。
「あ、は、はい。替えのジャケット、あります。大丈夫」
ノロノロとジャケットを脱いでバックパックから新しいものを取り出す。
「もしかしたら本当に道祖神のご利益があったかもしれませんねぇ。侮れないな。僕もこれからは声がけしていこう」
道祖神。……そうだ、龍神様の祓詞があったんだ。
「一之瀬さん。一緒に唱えましょう。祓え給い、清め給え」
「えっ、なんです?」
「祓詞です。悪霊退散の言葉です。祓え給い、清め給えって3回」
おじいさんからもらった水晶を、と思ったら、さっきのジャケットのポケットに入っていたんだった。
慌ててジャケットを取り出してポケットを探るものの、水晶がない。
「えっ、やだ。どこかで落とした?胸の内ポケットに入れていたから落ちるはずがないのに」
胸の内ポケットの部分を探ると、粉々になった水晶がポケットから滑り落ちた。
「……あぁっ!?」
「どうし…?ああ、それ、割れちゃったんですね……。うん、恵理子さん、大丈夫ですよ。それは役目を果たしたんだと思います」
「役目……?」
「きっと恵理子さんを守ってくださったんですよ。だから」
「そういえば、熊の時に」
「恵理子さんは、きっとたくさんの神様に守られてるんですねぇ。僕は全然信心深くないけれど、日本の土着信仰は割と好きなんですよね。きっと道々の恵理子さんのお祈りが届いているんだと思いますよ。だから元気出して」
「そう、でしょうか」
「うん。大丈夫、大丈夫。なんだか空も晴れてきたし、御嶽山が見えるかもしれないな。さ、気を取り直して出発しましょう」
「……はい。そう、ね。守ってもらったのだから感謝しなくちゃ。あの、一之瀬さん。ありがとうございます。なんだかおかしなことばかり口走ってしまって、その……」
「……うん。大丈夫。僕もね。妻を亡くして、しばらくはおかしなことばかり口走ってたんです。10年かかってようやく折り合いをつけて、今の僕がいるので、恵理子さんもきっと大丈夫」
一之瀬さんは、優しい人だ。優しくて芯が強い。
いい人とご縁をもらった。これも諏訪の姫神様に感謝をしなくては。
大丈夫。
うん、私はまだ、大丈夫。
「にゃあん……」
—— 猫の声は、今は聞こえない。




