離縁されたので旅に出ます
「君もいい年になったし?ふざけんじゃないわよ」
——田端恵理子、もとい、藤本恵理子57歳。
3ヶ月ほど前、晴れてバツイチ保持者になった。
「これまで通りって何よ。気楽に暮らしてなんかなかったわよ」
亭主元気で留守がいい、なんて言われてたけど、子供二人抱えて大変な時だってあったのだ。特に長男に関しては、父親の存在が必要だったのに。仕事仕事で全く家に居付かず、出産も入学式も、野球の試合もピアノの発表会も、何一つ参加してくれなかった。町内会の掃除にも、会合にも、一度だって参加しなかった。
「なぁにが子供には父親が必要、よ。うちの子には何もしなかったくせに」
結婚式だけは参加してくれたけど、スピーチはダラダラと紙面を読むだけで、何の感動もなかった。
「うちの長男は」で始まって、「亭主としてしっかり家庭を守るように」で終わり。
名前すら呼ばなかった。もしかして覚えていないのでは?と渉にも言われて苦笑した覚えがある。
「子供達が成人した時点で別れてくれれば、まだ体力的にも年齢的にも余裕があったのに!なんなら女ができた時点ででも別れてやったわ!」
離婚の手続きは思ったよりあっさりしていて、ちょっと気が抜けた。
弁護士を通さないから、銀行で取り分を受領して終わり。区役所と家庭裁判所で諸々の手続きをして旧姓の藤本に戻る。それから速やかに私物の整理。断捨離をして、子供たちの思い出の品などの荷物は田舎にある実家に送った。当然、兄家族には謝罪を込めて。家は久志の名義だから、家具もそのまま家を出た。家の鍵はまだ持っているはず。
そんなわけで。
私は今、中山道をポテポテと歩いている。
ずっと歩いてみたかった、古道巡り。
結婚してからの37年間、ずっとやりたいことを我慢していた。帰ってこない旦那を毎日待ち続けずに、勝手に一人で旅行に行けばよかった。思わず弛んだ腹に手を当てる。つまんだ脂肪が広辞苑の厚さを超えた。お尻がチンした後の餅のように横広がりになった。このままではいけない。
「今からでも全然遅くないですよ?」
旅行会社に問い合わせたところ、なんと徒歩で東京から京都まで、約532キロも歩く人は結構いるのだとか。中でも中高年の女性に人気だそう。元から一人旅の人もいれば、仲の良い友人たちと和気藹々と時間をかけて歩く人も。週末だけ歩く人もたくさんいるらしい。
いろいろな情報を差し出されて、やる気が出た。
のはいいんだけど、最初の三日は筋肉痛で死んだ。たったの10kmが初日は地獄かと思うほど。肩に食い込むバックパックが、まるで子泣き爺を背負っているようだった。あとせめて10年早ければ、と悔やむけど時間は巻き戻らない。「今からでも遅くない」を信じる他ないのだ。
今回の旅の目的は、世俗世界の断捨離である。自分探しの旅。
なんてかっこいいことを言って、スマホを持たずに旅に出たのは失敗だったかもしれない。
デジタルデトックスして自然体験を!と思ったんだけど、めちゃくちゃ不便だと気が付いた。写真は撮れないし、現在位置がわからない。いちいちバックパックから地図を取り出す。メモ帳を取り出して、場所と店名を記していく。学生時代に戻ったような感覚。漢字も結構忘れてて、記憶力もかなり落ちていた。
やばい。体も頭もだらけてた。
「時代の慣れって怖いわね」
ほんの30年くらい前は、スマホなしでも生きていけたのに。
それでも、ポテポテと1キロ歩くのに20分くらいかけていると、見えなかったものが見えてくる。民家の脇に咲く紫色の花だとか、家と家の間に挟まるようにある小さな祠だとか。昔の標識なのか、文字も読めないほど古い……なんだろう、塔婆みたいでちょっと不気味な木の板とか。
コンビニで買い求めたシャケおにぎりを、誰もいない古びた神社の階段に座って頬張ると、竹藪の中から黒猫が現れた。
「にゃあん」
「あら、猫ちゃん」
久志は動物嫌いだったから、ペットは飼えなかった。日菜子が猫が欲しいと言ったけど、却下されて可哀想な思いをさせた。まあその反動で、日菜子の家には猫が二匹と犬が一匹いるけどね。旦那様は料理人でかわいい孫息子もできて幸せ一家だ。本人は忙しすぎて全然会えないんだけど。
「今ならペットも……あ、私も根無し草だったわ」
それに旅をする予定だから、ペットはやっぱり無理ね。
金色の目でこちらを警戒する黒猫だけど、おにぎりが気になるのか逃げようとはしない。
「シャケおにぎり食べる?」
食べかけのおにぎりを少し取り分けて手のひらに乗せて差し出すと、ととと、と近づいて手のひらから食べてくれた。ざらりとした舌の感触がくすぐったい。
「お前、随分毛艶がいいわね、美味しいもの食べていそう」
「にゃあん」
てしてしと尻尾で地面を叩いて顔を洗う。徐に立ち上がり、踵を返すので満足したらしい。ウェットティッシュで手を拭いて立ち上がると、黒猫がこちらを振り返り手招きをした。
スマホのない時代に生まれたのに、もうなしでは生きられない…。




