まさかの始まり
新連載です。どうぞよろしく。
「離婚?」
日曜日のちょっと肌寒い早朝、母からの電話で、俺は素っ頓狂な声をあげた。
『そうなの。正確には3ヶ月前なんだけど。ちょっと手続きとかあって連絡遅くなってごめんねぇ』
「いや、ちょ。待ってよ。あの人、この間定年退職してお祝いあげたばっかだよね?!」
『うん、そうねえ。それも3ヶ月前だったわね。それがねぇ……』
3ヶ月前、37年連れ添った夫の久志が65歳で無事定年退職をした。
すでに家庭を持って家を出ている息子の渉の家族と、娘の日菜子の家族も呼んでお祝いをした、その日の夜。
離縁を言い渡された。
子供たちのいる前で言えばよかったのに、追及されるのを嫌がったのか、夫は姑息にも祝いの席の後で、こっそりと私に告げたのだ。
全く、これっぽっちも気が付いていなかった。他に家庭があっただなんて。夫のもう一つの家庭には、まだ成人前の子供が3人もいた。15歳、12歳、そして7歳の子供達。関係は18年も続いていたのだ。相手はきららさんという36歳の女性。長男の渉の一つ上の年齢ときた。
嫌悪感で吐きそうになった。
「子供達には父親が必要だから」
「君はいい歳だし、これまで通り一人で気楽に暮らせるだろう」
生活費はやるから心配するな、と吐き捨てた夫の頭に、結婚以来初めて手をあげた。人を叩くって、意外と自分も痛いのだと初めて知った。
「あなたからの生活費なんて、いらないわ!それより退職金よこしなさいよ!」
久志は大企業の重役を務めてきたから、退職金もしっかりまとまった金額が下りてきた。全額と言いたいところだったけど、その半分で示談してやった。
自分達のこれからの生活がどうだの文句を言ってきたが、それならば弁護士を挟んで裁判にすると言ったらおとなしく引き下がった。自分の息子の渉が税理士で、娘の日菜子が弁護士だということすら覚えていないくせに、この人は世間体をとても気にする人だったから。
戸籍上の家族を蔑ろにして、愛人と子供まで作って妻を欺いていたこと18年。
裁判にすれば負けるのは分かっている。自分が何をしてきたのか、会社にも周囲にもバレるだろう。そうなれば体裁も悪くなると考えて怖気づいたに違いない。
こちらは、30年以上も専業主婦をして、60歳に手が届くような歳で。これから探す仕事なんてスーパーのレジ係ぐらいしかできないだろう。
これから先、一人で老後を生き延びなければならないのだ。
そう考えれば退職金全額をもらいたいくらいだ。
『……というわけなのよ。それでねえ、母さんも身軽になったことだし、ちょっと旅に出ようと思って電話したの』
「あーまあ、離婚は反対しないけどさぁ。なんだか今更な感じだな。で、あの人に愛人?しかも俺と同年くらいの女?え?やばくないの、それ?」
『そうねぇ。母さんもびっくりだったわ。ま、渉にとってはあんなでもお父さんだし、孫たちにはおじいちゃんなのは変わらないから。会いたかったら直接連絡してあげて。あと、税務関係お願いしてもいい?旧姓に戻ったし、お父さんから退職金もらったから小金持ちになったのよ、うふふ』
受話器を置いて、すっかり冷めてしまったコーヒーを口に含む。
妻の早苗が心配そうにこちらの様子を窺った。
「母さん、離婚したんだって」
「え、今更?」
「親父に離縁言い渡されたって。なんつーか、自分の親だけどマジで下衆。浮気。相手の女が俺より一個上だって。18年の付き合いで、子供が3人いるらしい」
「あらまぁ……。でも、こう言っちゃ悪いけど、お義母さんにとってはよかったんじゃないかしら。お義父さんってちょっとほら…」
「うん。よくここまで我慢したなとは思う。あー、俺週末ちょっと妹んとこ行ってくるわ。母さんの財産管理とか任されたからさ」
ふと窓の外を見ると、黒猫が塀の上にいた。目が合う。
何かを呟くかのように、口が動くのが見えた。ただ鳴いただけなのかもしれないが。
突然全身の毛が逆立って背筋が凍った。
「さむっ」
腕を摩り、猫から視線を外す。
そういえば、親父は猫が嫌いだったなと、どうでもいいことを思い出した。




