四つ眼の鹿
今日は快晴。峠道は、思ったよりも歩きやすい。
三日間も歩くのをサボったせいで、今日は辛いのではと思っていたけれど、思っていたより体を休めたのは良かったみたいで、歩みは軽い。
「まさに、心がごしたら湯に浸かる。ふやけたら美味いもん食ってまた起きりゃええ、だよね」
”ごしたら”の意味はよくわかんないけど、多分”疲れたら”ってことよね。バックパックには相変わらず熊鈴が備え付けてある。諏訪大社で買ったお守りもぶら下がって、守られてるという安心感がある。ついでに言うなら、謎のおじいさんからいただいた龍神様の水晶も、ジャケットの胸ポケットに入れてある。
悪霊退散。守備は万端。
オーバーキル気味かもしれないけど。
風の音と、自分の足音だけがやけに大きく感じる。相変わらず山道を歩く人の姿はない。木々の間から差し込む光がまだらに地面を照らしていて、どこか現実味が薄い。
まるで一人、切り離された世界に取り残されたかのように感じる。
和田峠での出来事を引きずっているのかもしれない。あれから何日か経ったというのに、ふとした瞬間に思い出してしまう。――熊よりも、消えた親子のことを。
「……気にしすぎよ、恵理子」
そう呟いてみても、胸の奥のざらつきは消えなかった。静けさが怖いと思うなんて。
そのときだった。
ふ、と視線の先に、白い何かが立っているのに気づいた。道の少し外れ。木々の隙間に、すっと溶け込むように。
――鹿?
思わず息を呑む。
黒く真っ直ぐ伸びたツノ。
雪のような白い毛皮。
細く引き締まった脚と無駄のない輪郭。
そのすべてが、あまりにも静かで、整いすぎていた。
美しい、という言葉では足りない気がした。厳かな、穢し難い神聖な存在のようで。
「……わぁ」
声が、自然と小さくなる。
近づこうとは思わなかった。相手は野生動物だ。距離を保つのが当たり前だと分かっている。ただ、見ているだけで、なぜか胸の奥が静かになっていく。気がつけば、私は手を合わせていた。キン、と空気が澄んだ気がした。
「……心が浄化されるようだわ」
うっとりとしてため息をつくと、鹿がハッと顔を上げて私をみた。
一瞬の怯えがその瞳に走った。そしてギョッとする。
目が——
瞳の下に、もう二つ。
それに気がついた途端、鹿が悲鳴をあげた。
——ギィィィィッ!!
その鳴き声は、想像していたものよりずっと恐ろしく鋭く、思わず耳を塞いでしゃがみ込んでしまった。
慌てて胸のポケットの水晶を握りしめる。
悪霊退散!いや、違う。
「祓え給い、清め給え!祓え給い、清め給え!祓え給い、清め給え!!」
思わず、祓詞を唱えていた。




