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眼の錯覚とカモシカと

本日二本目です。

 なぜ、祓詞を唱えたのか。


 なぜ水晶に縋ったのか。


 なぜ()()がこの世のものではないと思ったのか。


 諏訪の湖が胸の中に溢れて逆流する。溺れてしまいそう。ぎゅっと目を瞑り、それから意を決してもう一度鹿を見た——見ようと、した。


 けれど、鹿は絶叫し、恐怖に呑まれた顔で、こちらをみながら——。


「……え?」


 身体の輪郭が曖昧になり、空気に溶けるように光の粒になって流れていった。瞬きをすれば、そこにはもう何もいない。


「……うそ」


 足が、動かない。


 また。


 また、だ。


「……なん、なの。これ……」


 和田峠の出来事が、嫌でも蘇る。現実的には考えられない様なこと。


 あの時も、こんなふうに——





「どうかしました?」


 背後から声がして、びくりと飛び上がった。


「ああ、すみません。驚かせましたか」


 振り返ると、一人の壮年の男性がカメラを持って立っていた。


 中肉中背、六十歳くらいだろうか。ちょっと無精髭を生やして黒縁のメガネに帽子を被り、大きなカメラを首から下げている。人好きそうな笑顔を浮かべている。


 人?幻?まさか亡霊なんじゃ。


「あのっ、あの、今、そこに鹿が……っ」


「あ、あなたもみました?」


 男性はあっさりと頷いた。


「カモシカですよ。珍しいな。ラッキーでしたねぇ。滅多に会えないそうですよ」


「カモシカ……でも、あの……消えたように……それに目が、4つもあって、」


 言いながら、自分でもおかしいと思った。だけど、そう見えた。私だけじゃないよね、という意味も込めて、同意を求めた。


 男性は少しだけ目を細めて、先ほどカモシカがいた方向を見た。


「ははは。あれはね、眼下腺と言っていわゆる匂い袋ですね。初めて見ると目と間違えちゃって、びっくりしますよね。あと、カモシカはね、切り立った崖の上でもひょいひょい飛んで歩くんです。落ちない、転ばないから縁起がいいって言われます」


「え?あ、そうなんですか……じゃあ、あの、消えたように見えたのは、」


「ん、光の加減かな?あなたの位置からカモシカが跳ねたとこ、見えなかったのかも」


 穏やかな声だった。


 は、と息を吐く。


 そうか。カモシカ。四つ目の化け物じゃなかった。


「あと、あれ、すごい声で鳴いていたでしょ。ぎゃーって。ひょっとしたら鳶か何かを威嚇していたのかもしれません。鳶がいたら写真に収めたいんですけどねぇ」


 威嚇……。私、祓詞はらいことば思いっきり叫んでたわ。カモシカをお祓いするおかしな女だって思われたかしら。ひぇ、思い違いとはいえ、恥ずかしい。


 首から下げたカメラが、ふと目に入る。


「あの……写真を?」


「ええ。趣味なんです。暇さえあればこうして山を歩いていましてね。あ、僕、野鳥愛好家の一之瀬和彦といいます」


「私は……ええと、旅行初心者の藤本恵理子です」


「旅行家の恵理子さん。もしかして中山道踏破、目指してます?」


 一之瀬さんはにこやかに笑った。その表情に、少しだけ肩の力が抜ける。なんだか、人懐こい人だわ。


「……はい。まだ始めて三週間も満たないんですけど」


 もう一度、さっきの場所を見るけど、そこにはもう何もいない。


(……我ながら、オカルトにだいぶ侵されてるわね。しっかりしなくちゃ)


「おお、すごい。麓まで、ご一緒しても?」


 一之瀬さんの言葉に、私ははっとする。旅の友ができそうな予感。一人でいるよりも、誰かと話していた方が断然いい。縁結びのお守り効果が、もう出てる!


「あ、はい。おじゃまでなければ是非!」


 二人で歩き出すと、不思議と足取りが軽くなる。他愛もない話をしながら、ゆっくりと峠を下っていく。一之瀬さんの持つ雰囲気は柔らかい。会話術に長けているのだろう。初めて会ったのにまるで長年の友人かのように落ち着く。人恋しかった私が、縋り付いているのかもしれないけれど。


 山のこと。写真のこと。最近の天気のこと。


 この辺りにいる鳥や動物のこと。どれも現実の話だ。ちゃんと触れられる世界の話。それが、こんなにも安心するものだとは思わなかった。


 特に今の私にとっては。


「あ、恵理子さん、ほらあそこ。オオルリがいます。あの青い鳥」


「わぁ。綺麗な色。でもオオルリなのに、小さいですねぇ」


「ははっ確かに。でも声は大きいの。オオルリはね、ルリなだけにピールーリーって鳴くんです」


「ええ?本当に?」


 じんわりと、心が温まる。爽やかな風が吹く。木々がざわめく。もう、あの異質な気配はない。きっと気のせいだ。一之瀬さんの言う通り、見過ごしたか見間違いに決まってる。恐怖心は、いらないものを見せるというもの。


 アレはカモシカ。カモシカよ。


「あ、ほら鳴いた。ね、綺麗な声でしょう」


「本当ですね!あ、あそこにも、」


 そう言いかけた時、遠くの雑木の奥で、何かが動いた気がした。


 ほんの一瞬だけ、視線を感じた——


 ちりん、と熊鈴が鳴る。


 まるで呼ばれたかのように、振り返ろうとして。


 ……ハッとして、前を向く。振り返っちゃダメ。


「ん、どうしました?」


「……いえっ、なんでも」


 私は首を振って、鳥の声に耳を傾けた。


カモシカ、写真で初めて見た時は、ちょっと目を疑いました。

カモシカって牛科なんですってねー。知りませんでした。

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― 新着の感想 ―
カモシカは牛科ですか。昔の作品にウシカモシカっていたけど、案外本当に家畜化するとそんな感じだったのかな?
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