鬼熊の森
「鬼熊が出たぞーーー!」
辺境にあるその村はパニックに陥っていた。森の奥深くに住み、神獣と呼ばれている魔獣が現れたのだ。それを意味するものは、誰かが森の掟を破った証拠。森の聖域に人が入り込んだか、聖なる食物を奪ったか。
その森は、デビルグリズリーの縄張りだった。神獣と呼ぶのは、人間が太刀打ちできるような生き物ではないからで、本当に神獣というわけではなかった。
鬼熊のナワバリには貴重な薬草や果樹が多くあるが、それを採りに森に入ったものは誰一人として戻って来ない。
それどころか、鬼熊が人里に報復しに降りてくることで、誰かが縄張りを荒らしたのだとわかる。
「どこのどいつが、鬼熊の縄張りに入ったんじゃ!」
村長が唾を飛ばしながら、村の戦士たちに指示を出す。辺境の村だからこそ人々は屈強だが、それを持ってしても鬼熊には叶わない。せいぜい被害をできるだけ抑えるくらいしか術がないのだ。
「ハンクのところの倅がいない!」
「メリッサの娘とジャックもだ!」
「あの小童どもか……!」
辺境の子供達は自分の強さを見間違うことがあり、肝試しだの腕試しだので命を落とす。今回もその類で、気性の荒い二人が狩りに夢中になって奥まで入り込んだのに違いない。
「門を閉めろ!子供達は集会所の地下へ!男どもは弓をもて!女たちは火を熾せ!急げ!」
「でも、村長!ジャックたちがまだ……!」
「あやつらのために村を全滅させるわけにはいかん!ジャックがついているなら、まだ生きてる可能性はある!今は守りを固めるんじゃ!」
ジャックは村を守る戦士の一人で、一番若い男だ。おそらく彼が、二人が森に入るのを見たに違いない。
自身にもそんな経験があるから、血の気の多い若者を引き止めるよりも、護衛に回ったのだろう。
「悪手だったがな……!」
ジャックの親父が、自分の無謀な行動のせいで死んだ事を悔やんでいるのかもしれないが、その親父と同じ行動に出るようでは。
「命を無駄にしおって、バカが」
村の周囲には松明を用意し、タールの入った桶が並べられる。戦士たちはそれぞれに武器を持ち、森の入り口を睨みつけた。村の男たちは矢にタールの染み込んだ布を巻きつけ、鬼熊に火矢を浴びせる用意をした。
静けさが辺りを包んだ時。
チリーン、チリーンと涼やかな音が響いた。
——森が、息を止めた。
「……なんだ……?」
「鈴の音……?」
どこからか湧き出た霧が森の入り口に漂い、ゾッとするような冷気が村に染み込んできた。
誰もが身動きひとつ取れず、ただ森の入り口を睨みつけている。視線が外せなかったのだ。恐ろしい何かがいる。鬼熊なんぞ、問題にならないような、神気が肺を凍り付かせた。
「ごぁるぅぅぅ……」
鬼熊の唸り声と、ふんふんと鼻を鳴らし威嚇するような息遣いも聞こえてきた。
すぐそばにいる。
だが、誰一人として声も上げず様子を見守っている。弓を構える腕がカタカタと震えるのは、恐怖からではなかった。パチパチと松明が燃える音だけがやけに大きく響く。
その静けさを、パンッと突然の破裂音が引き裂いた。
びくりとした村人が、誤って矢を放ってしまった。
「あっ……!」
勢いのまま、飛び去った矢は、しかし空に飲まれ地面に落ちた。枯れ葉に火が燃え移ったものの、濃霧がその火を消し去ってしまった。
そして再度、パンッと破裂音が辺りに響く。
「ヒィ……ッ」
誰かが尻餅をついて息を呑んだ。
一体何が現れるのか。息を呑んでいると、濃霧は現れたと同じように急激に消え去っていった。鬼熊の気配も消えて、周囲に音が戻ってきた。
「は……っ」
村長が息を吐いた。
全身が震える。
これは恐怖ではなく、畏怖だ。何か人ならざる高貴なものがいた。森の精霊王か、あるいは神か。
見てはいけないものが、そこにいたのだ。
「にゃあん」
獣の声がした。
「そ、村長、人影がこっちにくる。……あれ、ジャックだ!メリッサんとこの娘を担いでるぞ!ハンクの倅もいる!」
「扉を開けろ!注意は怠るなよ!」
時が動き出したかのように、村に騒々しさが戻ってきた。
「ジャック、よく戻って来た。鬼熊には見つからんかったんか」
「い、いや。それが……見てくれこの傷」
ジャックが見せたのは容赦無く引き裂かれた革鎧だった。
3本の爪痕がざっくりと胸当てを切り裂き、肌が見えているものの、怪我はない。とはいえ、シャツは血糊で真っ赤に染まっている。
「なんだこれは……、よく避けられたな。この傷からして、まともに喰らったんだろうに。体も引き裂かれていてもおかしくないが…どうやったんだ?」
「……女神が現れたんだ」
「はぁ?お前こんな時に何のぼせた事を」
「ち、違う!本当に女神が現れて、この傷を治してくれたんだよ!それにカイも足をやられてたんだが、すっかり直っちまってる。マギーは今は気を失ってるが、背骨を折られて、致命傷だった」
村長と村人たちは二人の子供たちを見る。カイはジャックの横で俯いたまま青ざめている。マギーに至っては気を失い、服はボロボロで血まみれだったが、体に異常はなかった。
「お、オレ、オレ達、鹿を追っかけて森に入ったんだ。その、滅多に見ないでかい雄鹿で、どっちが先に狩れるか競争しようってマギーが言って……」
ここんとこ、肉食ってなかったから、つい。とカイの言葉が尻窄みになっていく。この季節、野生動物達は繁殖期で殺気立っているからと、森に入るのは厳禁されていた。家畜を飼うと森から岩猪や四尾狐が出て襲うため、村には家畜がいない。繁殖期はほんの一月の間で、それが終われば、卵や若い肉、乳などが手に入るため皆我慢をする。だが、その短い期間さえも我慢できないのが若い衆だった。
毎年懲りずに誰かが森へ入り、怪我をして帰ってくるか、二度と顔を見ることがないというのに。
「おめえらはジャックの命までも危険に晒したんだぞ。覚悟しとけ!」
貴重な戦士を失うところだったのだ。罰は優しくはない。
「まあ、村長。オレも自惚れてたんだよ、勘弁してやってくれ。」
ジャックが間を取り成した。
「とにかく、聖域に入ったのはマギーで、鬼熊の好物の蜂の巣を誤って弓で撃ち落としてしまったんだ。すぐ近くに鬼熊がいたのにオレも気配も読めなかった。それでベアハグを受けて全身骨折の音がした。マギーの体は放り投げられ、鬼熊は蜂の巣に夢中になったから助かった。その隙にマギーを担いで風下に逃げたんだ。
カイは木々の間を逃げ回って鬼熊の攻撃を直接受けずにいたんだが、苔で足を滑らせて沢に落ちて。オレが助けに入ったんだが、この通り胸を切り裂かれて瀕死だった。ところが、その時、鈴の音が聞こえて来て」
「鈴の音……わしらも聞いた」
ジャックは神妙な顔で周囲を見渡す。
そして頷いた。
「あれは……聖域に住まう何かだ。鬼熊ですら、動きを止めて辺りを警戒した。そして、俺たちを無視して鈴の鳴る方へと歩き出したんだ。その間にカイだけでも逃げろと言ったんだが」
「猫が、見ていたんだ」
カイがボソリと口を開いた。
「真っ黒な猫だ。いや、鳴き声が猫だったからそう思っただけで、実際には黒いモヤのようなものだった」
「……魔獣か?」
「……違う、と思う。俺たちを見ても襲い掛かるでもなく、ただ見ていた。そこへ人ならざるものが来た。女の姿をしてた。けど、瞳が……瞳だけが真っ暗闇で、まるでポッカリ穴が空いているような……」
「……か、会話を、したのか?」
「ううん……言葉が全然わからなかった。でもすぐ近くに来て、光る手でオレの傷口を手当てして、ジャックの体には白い布を巻きつけた。それから…飲み物と白い食い物をもらった」
「食べたのか!?」
二人は頷いた。目の前に差し出されて、恐ろしくて拒絶なんて出来なかった。
「柔らかくて、酸っぱい赤い木の実が入ってたそれを食べたら、」
足の腫れが引いて、目の前が明るくなって。
体力が回復した。
驚いてると、今度はマギーに触れたんだ。
もう死んでるって言ったんだけど、聞こえてないみたいで。マギーに何か話しかけて、背中に薬みたいなのを塗った。
「そうしたらマギーが。冷たくなってたマギーが、息を吹き返したんだ、マギーにもなにか食いもんを与えてた。見たことのない、変なやつだったけど」
「マギーの口元から甘い匂いがしてた。果実か、ネクターのような」
マギーを担いでいたジャックがそう付け加える。村人達は、息を呑んでカイとジャックの話を聞いた。信じられない思いと、奇跡を目の当たりにして。
そして3人は鈴の音に守られながら、村まで戻ってきた。
「……死の淵に住まう深淵の女神か。生きろと、手を差し伸べてくださったのだな……」
「この奇跡に祈りを」
「女神に、感謝を」
村人は皆、頭を垂れ、深淵の女神に感謝の念を捧げた。




