家出 9
談話室、とでもいうのだろうか。
そこは四五人まで寛いで話ができそうな、ソファーとローテーブルの設えられたこじんまりとした部屋だった。窓は大きく前庭を望めるが、ソファーからはほど遠く、声も漏れることもなく、もし覗き見する者がいれば中から容易に気付ける仕様だ。特に今は外が明るく、室内はほの暗い。中で誰が何を話しているのか外から察することは難しいだろう。
「面談室の一つだと思う」
興味深げにきょろきょろとする姉に弟は冷静だ。今まで幾度か通った部屋の一つなのだろうか。
「詳しいのね」
試験を受けた以上、彼の方が詳しいのは当たり前のことだけれど、少し悔しい気がした。そして彼は既に新しい扉を開いたのだと思い知らされたようでもあった。
「さて、とりあえず」
「座ろう、姉さん」
並んで座るのも居心地悪く、向かい合う気もせず、なんとなく二人は対角線上に座り、それからリラはイーサンの右手直角の一人掛けソファーに移動した。手を伸ばせば届くが見えるのは横顔だ。
「イーサン」
弟の名を呼んで、リラは言葉を探した。会ったら何を話すかを考えてばかりの二日だった。だが、いざその時がくると何を聞いたらいいのか分からない。先ほど自分のために時間を作ってほしいと言ったが、それだってもう、こうして座っただけで果たされたような気持ちになっていた。
しばらくの沈黙ののち、リラはようやく言った。
「もう、家へは戻らないのね」
「役所で働けることになったし、その、希望通りに」
「でも、どうして」
「姉さんが、リラ・シンガが当主に相応しいからだよ」
イーサンはリラをちらりとみて視線を逸らした。何か思うところが、口に出すのがはばかられることがあるような視線に、リラは落ち着かない気持ちになる。
「成人したときに、父さんから当主の話を聞いたんだ。僕から姉さんに話すことはできないけれど、それを聞いて確信したんだ、僕には…無理だと。」
イーサンは手で顔をぬぐうようにこすると続けた。
「元々考えていたんだよ、僕は何も持っていないから。年の差を引いても、姉さんに勝るものなんてない」
「そんなことないでしょう、あなたのアイディアや考えはいつも重要だったわ」
「それは姉さんという土台があったから、役に立ったんだよ。僕はどこまでも主体的になれなかった、姉さんがいなければどうしただろうってずっと考えてたんだ。でも、姉さんがいないシンガ家は考えられなかった。成人したころには、年上の働き手を指揮して一地区回してたと聞いたよ、今の僕には到底できない…僕は、姉さんの縮小版でしかないんだ」
そんなことない、と言いかけてリラは唇を噛みしめた。イーサンがもっとしっかりしていれば、と思う気持ちが少なからず自分の中にあるのは確かだった。それでも、彼が成長していけば克服されると思っていたし、周囲もそう考えていたはずだ。リラも、イーサンに物事を教える時には彼には伸びしろがあるのだ、と努めて伝えるようにしていたつもりだ。だが、伸びしろがあると暗示をかけていたのは自分にだったのだろうか。
困惑するリラに、今度は不敵な笑みを浮かべてイーサンは言った。
「やればできると思うよ」
「イーサン」
「でも、やらない。姉さん以上にはできないし、僕にはやりたいことができたからね」
「それがなんなのか、聞いてもいい?」
「内緒」
「なんで」
「今度ね、まだ戸口に立ったところだし、姉さんには話せないこともあるんだ」
「ずるいわ」
微笑み、前を向く弟を前に、リラはうつむき、再度呟いた。
「ずるいわ」
それはイーサンに向けるには不当な思いだった。だが、イーサンが生まれて奪われた後継者の地位をイーサンの決断によって返された今、それは紛れようもない本心だった。
「みんな、私を振り回して。私、自分からあとを継ぎたいなんて、思った事も言った事もない」
黒い女王と呼ばれるようになるほど、頑張ってきたことを悔やむつもりはないが、それでも前を向き続ける努力をしてきた自負はある。弟の規範になれるよう、胸を張って失敗に怖気づくことなく進んできた。
ぽつり、とリラの口から言葉が漏れる。
「あなたがいたから、私だって頑張って来れたのよ、イーサン。あなたがいなくなって、私はどうしたらいいの」
「嫁に行っちゃうとか」
意外な言葉にリラはハッと顔を上げて弟の顔を見た。
「いいんじゃない、自分で決めていいことになってるし。姉さんが居なくなっても何とかなるよ」
「そんなこと」
「僕の口からは言えないけれど、父さんが姉さんを当主にしたがらなかったのには、訳があるんだよ。姉さんが出ていくと言うなら留めないと思う」
それは当主の話に関係あることなのだろうか。だが、イーサンにその話の続きをする気はないらしく、話題を変える。
「何か、やりたいことないの?気になることとか」
「気になること?新しい苗の生育状況は気になるけど…」
「他にやってみたいことは?」
「そうね、あの苗が無事に育ったら、いくつかの種もみと掛け合わせをしてみたいわ。あと鶏舎を増築して卵の増産もしたい、あれは良いお金になると思うの。それから冬に話していたでしょ、今度の裏作に新しい麦も試して、それでね」
イーサンが頬杖をついて、にやにやした顔で見ているのに気付いてリラは言葉を止める。
「なに?」
「シンガ家の娘だよね、生粋の。他にやりたいこと思いつかないの?」
言われてリラは愕然とする。自分の中にある楽しいことはすべてシンガ家の農場とその経営に纏わることばかりだ。
「まぁ、わかるよ。姉さんは恵まれてる。やりたいことをやる力もある。存分に振るった方が人生楽しいんじゃない?」
「でも嫌なのよ、ガレンは」
「彼もしつこいねぇ。じゃぁ、姉さんの今季の目標は恋をすることだね。父さん母さんとガレンを納得させられるような男を捕まえないと」
「簡単に言って」
リラは苦笑する。強張った体がほぐれてきて、溜息とともに柔らかいソファーに体を預ける。
「イーサン、父さんと母さんには落ち着いたら自分の口から説明しなさいよ」
「姉さんからも口添えをなにとぞなにとぞ…」
軽口に横柄に頷き、リラは笑った。
「住所が決まったら連絡をくれるというなら、なんとか話をしてみましょう」
「了解です、わが女王様」
微笑みあい、それではと二人が席を立ったところで、ドアがノックされる。三十分もたったのだろうか、少し間を置いてアキが顔を覗かせた。
「首尾よし?」
「万全よ」
朗らかにリラが応えると、彼は驚いたような顔してそれから微笑んだ。
「イーサン・シンガ、スリア先生が迷い子を探していたよ」
「ちょ……」
イーサンが慌てて荷物を抱えなおして扉に向かう。
「僕がお借りしてる、って言っておいたから大丈夫だけど、心配してたから…」
「イーサン、ありがとう、連絡待ってるからね」
「姉さん、またね!」
イーサンが駆けていくのを見送って、パタリとアキが扉を閉めた。
そして、にこりと笑う。
「報酬をくださいな、女王様」




