第7話 雨の日、剣を抜かない人
朝から、雨だった。
窓を叩く音で目を覚ました俺は、ベッドの中でしばらく天井を見ていた。
『雨の日は剣を抜かない。理由は誰にも話していない。』
昨日の夕暮れ、空を見上げたアルベルトの横顔を思い出す。「明日は、降るな」と言ったときの、少しだけ低くなった声。
(……考えるな。俺には関係ない)
関係ない。そう決めたはずだ。推敲方針、その三。もう二重線だらけで読めないけど。
「リュカ様、本日の予定ですが」
トマが、ぬるめの紅茶と一緒に羊皮紙を差し出してきた。
「午前中に、二年の委員推薦の件で三名とお約束を。昼食はロシェ伯爵家のご子息と。午後は騎士科との合同剣術授業がございます」
「合同授業……」
二年の剣術は、三年の騎士科と合同で行われる。本文では、リュカがミシェルの木剣に細工をする場面に使った授業だ。もちろん、今回はやらない。
「雨天ですので、屋根付きの演武場で行われるそうです」
「わかった」
午前中の根回しは、拍子抜けするほど順調だった。
収穫祭の準備委員に、ミシェル・ローランを推す。そう言っただけで、取り巻きたちは目を丸くして、それから競うようにうなずいた。
「リュカ様が、あの特待生を……?」
「何か問題が?」
「い、いえ! まったく!」
悪役令息の人望は、こういうときに便利だ。中身は恐怖政治だけど。
そして、午後。
屋根付きの演武場には、雨の湿った匂いが満ちていた。高い天井に雨音が反響して、木剣の打ち合う音をくぐもらせている。
二年と三年が組になって、型の確認をする。俺の相手は、騎士科の名前も知らない三年生だった。たぶん、余白の住人だ。
型をなぞりながら、俺の目は、無意識に演武場の端を探していた。
いた。
アルベルトは、壁際の柱にもたれて立っていた。木剣は、足元に置いたまま。教官も何も言わない。
「グランツ様、また見学か」
「雨の日はいつもだよな。体調が悪いって話だけど」
「首席様は気分屋なんだよ」
周りの生徒たちが、小声でささやき合っている。
知らないのだ。誰も。
アルベルト自身が、誰にも話していないから。
そのとき、演武場の中央から、わざとらしいほど大きな声が響いた。
「グランツ! 見学ばかりでは退屈だろう。一本、手合わせ願おうか」
ヴィクトル・ラング。伯爵家の嫡男で、騎士科の次席。
本文では、アルベルトに一方的に対抗心を燃やす小物として、二巻で少しだけ登場させた。剣術大会でアルベルトに負けて、捨て台詞を吐いて退場する役だ。
演武場が、しんと静まった。
アルベルトは柱から背を離さないまま、静かに答えた。
「断る」
「なぜだ? 雨の日だけ剣を抜かないのは、何か理由があるのか?」
ヴィクトルは、にやにやと笑いながら近づいていく。
「それとも、雨が怖いのか。首席様ともあろう方が」
周りから、くすくすと笑い声が漏れた。
アルベルトの表情は、変わらない。何ひとつ、変わらない。
でも、俺には見えた。
足元の木剣の横で、彼の左手が、きつく握りしめられているのが。
指の関節が、白くなるほどに。
――気づいたときには、体が動いていた。
「ラング先輩」
ヴィクトルが振り返る。俺の顔を見て、意外そうに眉を上げた。
「ベルナールか。なんだ、お前もグランツを笑いに来たか?」
「いいえ」
俺は、にっこりと笑ってみせた。
本文で何百回も書いた、リュカ・ベルナールの、一番感じの悪い笑顔を。
「先輩の今の発言、ベルナール侯爵家の名前で、教官に正式に記録していただきましょうか。授業中に見学者へ私闘を強要した、と」
「なっ……」
「次席の方が、首席に私闘を挑んで断られた。そういう記録が残ったら、卒業後の騎士団の配属に響くかもしれませんね。お気の毒に」
ヴィクトルの顔が、みるみる赤くなった。
悪役令息の脅しは、本文で書き慣れている。こういうときに使うために書いたわけじゃないけど。
「……ちっ。冗談の通じない奴らだ」
捨て台詞を吐いて、ヴィクトルは去っていった。二巻と同じ退場の仕方だった。
演武場に、ざわめきが戻る。
俺は小さく息を吐いて、振り返った。
アルベルトが、こちらを見ていた。
「……礼を言う」
「いえ。別に、グランツ様のためじゃないです。ああいうのが嫌いなだけで」
半分は本当だった。もう半分は、自分でもよくわからない。
アルベルトの左手は、まだ握りしめられたままだった。
雨音が、演武場の屋根を叩き続けている。
その音を聞きながら、俺は、設定資料の一文を思い出していた。
九歳の雨の日。彼の乳兄弟だった少年のこと。
本文に書けなかった、この人の一番深いところ。
だから、たぶん、気がゆるんでいたのだ。
「……怖いからじゃないのは、わかってますから」
ぽつりと、口からこぼれた。
「守れなかった人のことを、思い出すからでしょう」
言ってから、凍りついた。
演武場の雨音が、急に遠くなる。
アルベルトの顔から、すべての表情が消えていた。
次の瞬間、手首をつかまれた。
強い力だった。痛いくらいに。
「ベルナール」
低い声。初めて聞く声だった。本文のどこにも、書いたことのない声。
青い瞳が、すぐ目の前で、俺を射抜いている。
「お前、なぜそれを知っている」
――書いたからです。
とは、言えなかった。




