第8話 ユーリ
手首が、痛い。
アルベルトの指は、まるで鉄の枷みたいだった。振りほどけない。振りほどこうとも、思えなかった。
目の前の青い瞳が、揺れていたからだ。
怒りじゃない。もっと別の、俺の知らない何かで。
「……来い」
アルベルトは低く言うと、俺の手首をつかんだまま歩き出した。
「えっ、ちょ、グランツ様、授業中――」
「教官」
演武場の中央にいた教官に、アルベルトは一言だけ声をかけた。
「ベルナールは気分が悪いそうだ。医務室に連れていく」
「お、おう。そうか。頼んだぞ、グランツ」
首席の言葉を疑う教官はいなかった。
ざわめく生徒たちの視線を背中に浴びながら、俺は演武場から引きずり出された。
連れてこられたのは、医務室ではなかった。
演武場の裏手、使われていない用具倉庫の軒下。雨が屋根を叩く音だけが、やけに大きく響いている。
アルベルトはようやく手を離した。俺の手首には、くっきりと赤い指の跡が残っていた。
「答えろ、ベルナール」
声は静かだった。静かすぎて、かえって怖かった。
「誰から聞いた。父か。屋敷の古い使用人か。それとも――」
「誰からも、聞いていません」
「なら、なぜ知っている」
言葉に詰まる。
書いたからです。
あなたの過去は、俺のパソコンの中にあるテキストファイルに書いてありました。九歳の雨の日。王都の外れの屋敷。押し入ってきた賊。木剣を握ったまま動けなかったあなたと、あなたをかばって前に出た少年。
担当に「重すぎる」と言われて、本文から削りました。
そんなこと、言えるわけがない。
「……言えません」
結局、それしか言えなかった。
「言えない?」
「すみません。嘘をつくこともできるけど、あなたには、つきたくない」
アルベルトが、息をのんだのがわかった。
雨音だけが、しばらく二人の間を埋めていた。
やがて、アルベルトは軒下の壁に背中を預けた。ずるずると、少しだけ背が低くなる。完璧な首席の姿勢が、初めて崩れるのを見た。
「……誰にも、話したことはない」
ぽつりと、彼は言った。
「父にも、母にもだ。あの日のことを知っている者は、皆、口を閉ざした。公爵家の嫡男が賊を前にして動けなかったなど、外聞が悪いからな」
知っている。それも、設定資料に書いた。
「だから、あいつのことを覚えているのは、もう俺しかいないと思っていた」
アルベルトは、雨に煙る中庭を見つめていた。
「――ユーリのことを」
その名前を聞いた瞬間、胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
ユーリ。
アルベルトの乳母の息子で、同じ年に生まれた乳兄弟。明るくて、よく笑って、アルベルトの剣の稽古にいつもくっついてきた少年。
その名前を、俺は知っている。
俺が、つけた。
設定資料の片隅に、たった三行で。『ユーリ:アルベルトの乳兄弟。九歳で死亡。アルベルトの過去の核』。
それだけだった。顔も、声も、どんなふうに笑うのかも、俺は書かなかった。物語の「理由」として、必要だったから作っただけの名前だった。
なのに今、アルベルトの声で呼ばれたその名前は、三行よりずっと重かった。
「ベルナール」
「……はい」
「お前が何者なのか、俺にはわからない」
アルベルトが、ゆっくりとこちらを向いた。
「急に人が変わったように振る舞い始めたことも。俺が甘いものを好むと知っていたことも。ユーリのことも。何ひとつ、説明がつかない」
「……」
「だが、お前は嘘をつかないと言った」
青い瞳が、まっすぐに俺を見る。
今度は、後ろの何かじゃなく。俺も、彼を見返した。
「なら、ひとつだけ約束しろ」
「約束、ですか」
「ユーリのことを、他の誰にも話すな」
「話しません。絶対に」
即答した。考えるまでもなかった。
アルベルトは、少しだけ目を伏せた。それから、また顔を上げる。
「それと、もうひとつ」
「ひとつだけって言いませんでした?」
「今、増やした」
真顔だった。
「お前は、俺の目の届くところにいろ」
「……はい?」
「お前は、俺の一番深いところを知っている。それが誰に漏れるかわからない以上、放っておくわけにはいかない」
言っていることは、筋が通っている。筋が通っているのが、アルベルトらしい。
でも、俺は作者だ。キャラの台詞の、本当の意味くらいわかる。
(これ、たぶん、口実だ)
本人も気づいていない、たぶん。
誰にも話せなかった傷を、初めて知っている人間が現れた。責めるでもなく、笑うでもなく、「わかってますから」と言った人間が。
だから、手放せない。
そういうキャラに、俺は作っていない。
本文のアルベルトは、ミシェルのひたむきさに少しずつ心を開いていく男だった。過去の傷は最後まで明かさないまま、静かに剣を取る男だった。
でも、ここにいるアルベルトは違う。
未回収のまま、俺が書き捨てた伏線を、ずっと一人で抱えてきた人だ。
「……わかりました」
俺は、うなずいていた。
「目の届くところに、いますよ」
アルベルトは何も言わなかった。ただ、ほんの少しだけ、肩から力が抜けたように見えた。
雨はまだ、止みそうになかった。
その夜。
寮の部屋に戻ると、トマが妙に神妙な顔で待っていた。
「リュカ様。グランツ様の侍従から、言伝を預かっております」
「……なんて」
「『明日から、昼食は上座の席を用意しておく』と」
「上座?」
「グランツ様の隣の席、だそうです」
俺はベッドに倒れ込んだ。
「ちなみに、使用人たちの賭けですが」
「もういい。聞きたくない」
「全員が『グランツ様』派に移ったため、不成立となりました」
「聞きたくないって言ったよな」
枕に顔をうずめながら、俺はぼんやりと考えていた。
回収されなかった伏線は、どこへ行くんだろう。
作者が書かなかった結末を、キャラはどうやって生きていくんだろう。
答えは、たぶん、わかっていた。
ずっと、待っていたのだ。
誰かが、それを拾い上げるのを。




