第5話 名前のなかった侍従
それから三日間、俺は図書館に近づかなかった。
カイルの話が本当なら、アルベルトは俺を探している。理由はわからない。わからないが、原作の攻めが当て馬を探す理由なんて、ろくなものじゃないに決まっている。断罪の証拠集めとか。
だから避けた。徹底的に避けた。
そのはずだった。
「リュカ様。本日、三度目です」
昼休みの回廊で、トマが小声で言った。
前方から、銀灰色の髪の長身が歩いてくる。取り巻きもつけず、一人で。
朝は寮の玄関で。二限のあとは中庭の噴水の前で。そして今、回廊で。
(なんで!? 俺、原作のルート全部避けてるのに!?)
アルベルトは俺の前で立ち止まりもしなかった。ただ、すれ違いざまに、ちらりとこちらを見る。それだけだ。
それだけなのに、三度目となると、さすがに偶然とは思えない。
「グランツ様は、リュカ様に何か御用がおありなのでは」
「ない。あったとしても、ろくな用じゃない」
「左様でございますか。ちなみに使用人たちの賭けですが、本日より『グランツ様に恋をした』派が新たに加わりまして」
「増やすな」
「倍率は現在、二・五倍です」
「聞いてない」
その夜、俺は寮の自室で、トマが淹れたぬるめの紅茶を飲んでいた。
猫舌に合わせた温度だ。三日前に「熱い」と言ってから、トマは一度も熱いものを出してこない。
「なあ、トマ」
「はい」
「お前、なんで俺に仕えてるんだ」
トマが、ティーポットを持ったまま動きを止めた。
「……と、おっしゃいますと」
「正直に言っていい。俺は、ひどい主人だっただろう。使用人に当たり散らして、気に入らなければ物を投げて」
本文には、そう書いた。リュカの性格の悪さを示すために、何度も。
「五年も仕えて、嫌にならなかったのか」
トマは、しばらく黙っていた。それからポットを置いて、まっすぐに俺を見た。
「七年前の冬を、覚えていらっしゃいますか」
「七年前?」
「私は、王都の路地でパンを盗んで、衛兵に捕まりかけておりました。十三の頃です。その日はひどい雪で、親もおらず、行くところもなく」
知らない。
そんな話、俺は書いていない。
「そこに、ベルナール家の馬車が通りかかったのです。まだ十歳のリュカ様が窓から顔を出して、衛兵におっしゃいました」
トマは、少しだけ口元をゆるめた。
「『見苦しい。そんな汚いのを捕まえて何になる。うちで洗って使ってやるから寄越せ』と」
「……ひどい言い方だな」
「ええ、本当に。ですが、そのおかげで私は凍え死なずに済みました。旦那様に反対されても、リュカ様は『僕が拾ったんだから僕のだ』と譲らなかったそうです。屋敷で二年下働きをしたあと、リュカ様付きの侍従にしていただきました。それから五年になります」
ティーカップを持つ手が、止まっていた。
「リュカ様は、覚えていらっしゃらないでしょうが」
覚えているはずがない。
だって、俺はそんな過去を書いていない。設定資料にもない。リュカは「性格の悪い当て馬」で、それ以上の何かを、俺は一度も考えなかった。
でも、この世界のリュカには、あったのだ。
雪の日に、口の悪い子どもが、路地の少年を拾った日が。
俺が書かなかった余白の中で、リュカ・ベルナールはちゃんと生きていた。
(俺は、そいつを一行で殺したのか)
『リュカ・ベルナールは北の修道院へ送られ、その冬に死んだ。』
あの一行の向こうで、トマはどうなったんだろう。
主人が勘当されて、修道院へ送られて、死んで。拾われた路地の少年は、また行くところをなくしたんじゃないのか。
そんなこと、考えもしなかった。考える必要がなかったから。
「リュカ様?」
「……なんでもない」
紅茶を飲み干す。ぬるくて、少し渋かった。
「トマ」
「はい」
「俺は、北の修道院には行かない」
「……はい?」
「何があっても、行かない。だから、お前もずっとここにいろ」
トマは、ぽかんと口を開けた。それから、ゆっくりと頭を下げた。
「かしこまりました」
顔を上げたとき、その目が少し赤かったのは、たぶん気のせいじゃない。
推敲する理由が、ひとつ増えた。
俺が生き延びたいからだけじゃない。俺が書かなかった余白で生きている誰かを、もう一行で終わらせないために。
翌日の昼。
学院の食堂で、俺はトマと隅のテーブルに座っていた。ここなら目立たない。アルベルトは、いつも窓際の上座で食事をとる。本文にそう書いた。
だから、安心していたのだ。
「ここ、空いているか」
聞き覚えのある声に、スープをすくう手が止まった。
返事をする前に、向かいの椅子が引かれる。アルベルト・グランツが、当然のように腰を下ろした。
食堂中の視線が、一斉にこちらに集まる。
(上座はどうした!? 原作ではあんた、上座から動かないキャラでしょうが!?)
アルベルトは何も言わず、手にしていた小さな皿を、俺の前に置いた。
林檎のタルトだった。
食堂の名物で、昼過ぎには売り切れる人気の品だ。
そして、リュカの好物でもある。
設定資料に、そう書いた。
「……これは」
「お前の侍従に聞いた。好物だそうだな」
俺は、ゆっくりと隣を見た。
トマは、黙って頭を下げた。
本文と、まったく同じ動作だった。
(お前、裏切ったな……!)
アルベルトは、テーブルの上で指を組んだ。青い瞳が、まっすぐに俺を見ている。
「図書館で、お前は甘いものが苦手だと言った」
「……はい」
「なぜ嘘をついた」
答えられなかった。
あなたが甘党なのを知っていたから、とは言えない。それは設定資料にしか書いていない、あなたが誰にも話していない秘密だから。
黙り込んだ俺を見て、アルベルトはほんの少しだけ、目を細めた。
「理由は聞かない」
「……え」
「今日は、な」
それだけ言って、彼は立ち上がった。去っていく背中を、食堂中の生徒が呆然と見送っている。
目の前には、林檎のタルトが一切れ。
俺はフォークを握ったまま、しばらく動けなかった。
「リュカ様」
トマが、小さな声で言った。
「倍率が、一・二倍になりました」
「黙って食え」
タルトは、甘くて、少しだけ酸っぱかった。




