第3話 甘党の騎士様
翌日の放課後、俺は学院の図書館にいた。
理由は二つある。
ひとつ。図書館は、本文で一度も舞台にしなかった場所だ。つまり、原作のイベントが起きない。アルベルトもミシェルも、ここには来ない。避難所としては完璧だった。
ふたつ。純粋に、気になったのだ。
俺は窓際の席で、棚から適当に抜いた一冊を開いた。『セレスタ王国風土記』。本文では、背景の小道具として名前だけ出した本だ。
中身なんて、考えたこともない。
ページをめくる。
――書いてあった。
北部の気候。南部の葡萄畑。王都の水路の歴史。整った活字が、びっしりと並んでいる。
俺の書いていない文章だった。
(余白が、勝手に埋まってる……)
背筋が少し寒くなる。この世界は、俺が書いたものだけでできているわけじゃない。俺が書かなかった部分を、誰かが――あるいは世界そのものが、勝手に書き足している。
本を閉じて、深く息を吐く。
考えても仕方がない。今は生き延びることだけ考えよう。
俺は鞄から小さな包みを取り出した。今朝、トマが「頭を打った方には糖分が必要です」と言って押しつけてきた、蜂蜜の焼き菓子だ。
図書館で飲食は禁止だったかな、と包みを開きかけたとき。
「ここにいたか」
心臓が止まるかと思った。
顔を上げると、テーブルの向かいにアルベルト・グランツが立っていた。
(なんで!? ここ、本文に出てこない場所なんだけど!?)
「……グランツ様。図書館に、何か御用で」
「お前に用がある」
アルベルトは向かいの椅子を引き、断りもなく腰を下ろした。長い脚を組む動作まで、いちいち絵になる。
推敲方針、その三。アルベルトには近づかない。
二日目にして、向こうから近づいてきた。
「昨日の茶会の件だ」
「何もなかったと、申し上げましたが」
「ああ。何もなかった。だから来た」
青い瞳が、まっすぐに俺を射抜く。
「お前がミシェル・ローランに嫌がらせを続けていることは、学院の誰もが知っている。昨日も、取り巻きたちは紅茶が浴びせられると思っていたそうだ。だが、お前はやめた。そのうえ、謝った」
「……」
「何を企んでいる」
ですよね。
作者の俺が一番わかっている。アルベルトは、筋の通らないことを嫌う。だからこそ、悪役の急な心変わりを見過ごせない。そういうキャラに作った。
「企んでなどいません。ただ、その……飽きたんです」
「飽きた」
「人をいじめるのに。疲れるので」
我ながら、ひどい言い訳だった。アルベルトの眉間に、深い皺が刻まれる。
沈黙。
気まずさに耐えかねて、視線を落とす。手元には、開きかけの焼き菓子の包み。蜂蜜の甘い匂いが、ふわりと立ちのぼった。
そのとき、気づいた。
アルベルトの視線が、ほんの一瞬だけ、包みに落ちたことに。
本当に一瞬だった。すぐに俺の顔に戻った。誰も気づかないくらいの、わずかな揺れ。
でも、俺は知っている。
『甘党。ただし隠している。』
(あ、これ設定資料のやつだ)
ほとんど反射だった。作者として、自分のキャラが目の前で設定通りに動いた瞬間の、どうしようもない嬉しさ。
俺は包みを、テーブルの真ん中に押し出していた。
「よかったら、どうぞ」
「……は?」
「侍従が持たせてくれたんですが、俺、甘いものは苦手で」
嘘だ。リュカは甘いものが好きだ。設定資料にそう書いた。
アルベルトは、包みと俺の顔を交互に見た。
「俺も、好んでは食べない」
「そうですか。じゃあ、捨てるしかないですね。もったいないけど」
包みを引っ込めようとした手を、アルベルトの指が止めた。
「……捨てるのは、作った者に失礼だ」
彼は焼き菓子をひとつつまみ、口に運んだ。
表情はまったく変わらない。変わらないのに、目元の険がほんの少しだけゆるんで、二つ目に手が伸びかけて――止まった。
(かわいい……)
いや待て。俺が作ったキャラだ。俺が作ったキャラに、かわいいとか言うな。親バカか。
でも、本文には書けなかった。この顔は、どの巻にも載っていない。
アルベルトは咳払いをして、手を膝に戻した。
「菓子の礼は言わない。お前を信用したわけではないからな」
「はい、承知しています」
「ミシェル・ローランに何かすれば、次は見逃さない」
「しません。本当に」
「……」
アルベルトは立ち上がった。椅子を元の位置に戻す動作まで、きっちりしている。
去り際、彼はふと足を止め、振り返らないまま言った。
「ベルナール」
「はい」
「お前は、甘いものが苦手だったか」
心臓が跳ねた。
「……苦手ですよ。昔から」
「そうか」
それだけ言って、アルベルトは書架の向こうに消えた。
俺はテーブルに突っ伏した。
推敲方針、その三。アルベルトには近づかない。
開始二日で、攻めに菓子を食べさせた。
顔を上げると、包みの中の焼き菓子は、きっちり半分に減っていた。俺が勧めたのは、ひとつだけだったはずなのに。
いつの間に。
(……隠れて食べるの、上手すぎだろ)
それも、設定資料に書いた通りだった。




