第2話 本文と、設定資料と、余白
その夜、俺は自室の机にかじりついていた。
羊皮紙を三枚並べ、それぞれの一番上に見出しを書く。
一枚目、「本文」。
二枚目、「設定資料」。
三枚目、「余白」。
作家の悪い癖だ。混乱したら、とりあえず紙に書く。
まずは確認からだ。
本文で、俺はリュカの部屋をこう描写した。『深い青のカーテンと、使われない書棚。リュカは本を読まない』。
顔を上げる。カーテンは深い青。壁際の書棚には、背表紙の金文字が剥げかけた本が、新品同然で並んでいる。
(読んでやれよ、リュカ)
本文に書いたことは、そのままこの世界にある。これは間違いない。
次に二枚目。設定資料だ。
本の中には書かなかったけれど、俺のパソコンの「銀の誓約_設定.txt」には書いてあったこと。キャラの好物、家族構成、子どもの頃の思い出。物語に出す予定はないけれど、キャラを動かすために作者だけが知っておく裏設定。
リュカの設定にはこう書いた。『猫舌。本人は認めない』。
昼間の紅茶を思い出す。ぬるくなってから飲んで、ちょうどよかった。
試しに、侍従が運んできたばかりのホットミルクに口をつける。
「あっつ!」
「リュカ様!?」
扉の脇に控えていた侍従が、慌てて駆け寄ってきた。
「申し訳ございません、少し冷ましてからお出しすべきでした」
「いや、いい。確認しただけだ」
「確認……?」
設定資料も、生きている。本文に一文字も書かなかったことまで、この世界はちゃんと覚えている。
そして三枚目。余白。
本文にも設定資料にも、書かなかったこと。
俺は目の前の侍従を見上げた。黒髪を短く刈った、二十歳くらいの青年。いつもリュカの後ろに控えていて、原作では一度も台詞がない。本文での扱いは、たしか――
『侍従は黙って頭を下げた。』
それだけだ。
「なあ」
「はい」
「お前、名前は」
侍従は一瞬、きょとんとした顔をした。それから困ったように眉を下げる。
「トマでございます。お仕えして、五年になりますが」
「……そうか。トマか」
知らなかった。
俺は、知らなかった。
五年もリュカに仕えてきた男の名前を、作者の俺は一度も考えなかった。リュカに名前を呼ばせる必要がなかったから。
(余白は、俺にもわからない)
羊皮紙の三枚目に「トマ」と書く。それから少し考えて、こう付け足した。
『余白:作者にも予測不能。注意』
「あの、リュカ様」
「なんだ」
「今日は、本当にどうなさったのですか。お茶会で特待生に謝罪なさったと、使用人たちの間で噂に」
「噂になってるのか」
「はい。『リュカ様が頭を打った』派と、『リュカ様が恋をした』派で、賭けが」
「賭けるな」
トマは真顔で「私は頭を打った派です」と言った。
(こいつ、こんなキャラだったの……?)
いや、違う。こんなキャラ、作っていない。作っていないから、こうなのだ。
俺は咳払いをして、設定資料の紙に戻った。
問題は、アルベルトだ。
アルベルト・グランツ。公爵家の嫡男、学院首席、次期騎士団長。冷静沈着で、感情を表に出さない。ミシェルのひたむきさに少しずつ心を開き、最後は彼のために剣を取る。
――というのが、本文のアルベルトだ。
でも設定資料には、もっといろいろ書いた。
『甘党。ただし隠している。』
これは担当に「クール攻めのイメージが崩れるので本文ではナシで」と言われて、泣く泣く削った設定だ。
『雨の日は剣を抜かない。理由は誰にも話していない。』
これは、伏線のつもりだった。
その理由も、設定資料にだけ書いてある。九歳の雨の日のこと。彼の乳兄弟だった少年のこと。
三巻で回収するはずだった。でも打ち切りが決まって、ページが足りなくなって、担当に言われた。
『春日先生、この過去エピソード、重すぎて尺に収まらないので……』
だから、書かなかった。
アルベルトの一番深い傷は、この世界のどこにも書かれていない。作者の俺のメモの中にしか、なかった。
ペン先が、羊皮紙の上で止まる。
(……いや、今はそれどころじゃない)
俺は頭を振って、新しい紙に大きく書いた。
『推敲方針』
一、悪事をやめる。
二、ミシェルにきちんと謝る。
三、アルベルトには、近づかない。
三つ目には、二重線を引いた。
攻めに近づかなければ、断罪の場面も起きにくい。当て馬は当て馬らしく、物語の端っこで静かに生き延びる。それが一番安全なはずだ。
卒業前夜祭まで、あと半年。
「リュカ様、ミルクが冷めました」
「……ありがとう、トマ」
名前を呼ぶと、トマは少しだけ目を見開いて、それから何も言わずに頭を下げた。
本文と同じ動作だった。でも、本文には書いていない顔をしていた。




