第1話 当て馬、紅茶をかけ損ねる
右手の中で、紅茶のカップが傾きかけていた。
目の前には、亜麻色の髪の少年が座っている。大きな榛色の瞳が、怯えたように俺を見上げていた。
――あ、これ知ってる。
そう思った瞬間、頭の中に濁流が流れ込んできた。
締め切り前の深夜三時。冷めきったコーヒー。モニターに映る原稿。担当編集からのメール。
『春日先生、大変申し上げにくいのですが、『銀の誓約』は三巻で完結という形に……』
打ち切りの連絡だった。
そして俺は、その三巻を書き上げた帰り道に――
「リュカ様?」
隣にいた取り巻きの声で、我に返る。
王立セレスタ学院の中庭。白い東屋のサロン。午後の茶会。テーブルを囲む貴族の子息たちと、ひとりだけ制服の型が古い、平民の特待生。
間違いない。『銀の誓約』第一巻、第三章。悪役令息リュカ・ベルナールが、主人公ミシェルの頭から紅茶を浴びせる場面だ。
そして俺は今、そのリュカ・ベルナールの手で、カップを持っている。
(待て待て待て待て)
この後の展開を、俺は誰より知っている。だって、書いたのは俺だ。
紅茶を浴びたミシェルの前に、アルベルト・グランツが現れる。公爵家の嫡男で、次期騎士団長と目される学院の憧れ。彼は濡れたミシェルに上着をかけ、リュカを冷たく見下ろして言うのだ。
「品性は、家名では買えないようだな」
担当に「ここ、最高です!」と褒められた台詞だった。読者アンケートでも人気だった。
それを今から、俺が言われる。
(いやだ、絶対いやだ)
カップの傾きを、ぎりぎりで止める。手首に変な力が入って、紅茶の表面が大きく揺れた。
ミシェルが、ぎゅっと目をつぶる。
その顔を見て、胸の奥がずきりと痛んだ。
俺はこの子に、ずいぶん酷いことをしてきた。原稿の上で。一巻では紅茶、二巻では階段、三巻では舞踏会のドレスコード事件。全部リュカにやらせた。全部、ミシェルとアルベルトを近づけるための装置として。
「……失礼」
俺はカップをソーサーに戻した。かちゃん、と間の抜けた音がした。
「手が滑りそうになった。かからなかったか?」
ミシェルが恐る恐る目を開ける。取り巻きたちが顔を見合わせる。
「リュ、リュカ様……? でも、さっき『その汚い手で菓子に触るな』って……」
言ったのか、俺。いや、リュカが。いや、俺か。
記憶を探ると、確かにほんの数分前に言っていた。原作通りの台詞を、一字一句違わずに。
(俺の書いた台詞、性格悪っ)
「……訂正する。手は汚くない。菓子も好きに食べてくれ」
場の空気が、完全に凍った。
ミシェルは口をぱくぱくさせている。取り巻きの一人は「熱でもあるのでは」と真顔で俺の額に手を伸ばしかけ、慌てて引っ込めた。
そのとき、東屋の入り口に影が差した。
「何の騒ぎだ」
低く、よく通る声。
振り返らなくてもわかる。銀灰色の髪。夜明け前の空みたいな青い瞳。学院の制服を誰より正しく着こなす長身。
アルベルト・グランツ。
俺が作った、この物語の攻めだ。
(実物、顔がいい……!)
違う、そうじゃない。いや、そうなんだけど。
挿絵の先生が描いてくれたキャラデザを、何百回も見た。でも、実物は違う。生きている人間の顔には、紙にはない温度がある。
アルベルトは東屋を一瞥し、ミシェルを見て、最後に俺を見た。濡れていないミシェル。ソーサーに戻ったカップ。凍りついた取り巻きたち。
彼の眉が、ほんのわずかに寄る。
「……何もなかったのか」
「何もありませんでした」
俺は即答した。声が裏返らなかったのは奇跡だと思う。
アルベルトはしばらく俺を見ていた。値踏みするような、温度のない目。原作のリュカが何度も向けられた目だ。
「そうか」
それだけ言って、彼はミシェルに軽く会釈をし、去っていった。上着は脱がなかった。名台詞も、なかった。
東屋に、長い沈黙が落ちる。
俺は震える手で、自分の紅茶を一口飲んだ。すっかりぬるくなっていた。
――さて。
整理しよう。
俺は打ち切りBL小説『銀の誓約』の作者だ。たぶん、死んだ。そして自作の世界の、当て馬悪役令息リュカ・ベルナールになっている。
リュカの結末は知っている。
三巻の終盤。卒業前夜祭の大広間で、これまでの悪行をアルベルトに暴かれ、断罪される。実家から勘当され、北の修道院へ送られる。
そして最終ページの手前、ほんの数行の後日談の中に、こう書いた。
『リュカ・ベルナールは北の修道院へ送られ、その冬に死んだ。』
それだけだ。
死因も、最期の言葉も、何もない。
(だって、ページが足りなかったんだよ……!)
打ち切りが決まって、書きたかった話を三巻に詰め込んだ。削れるところは全部削った。真っ先に削ったのが、悪役の末路だった。
一行。
たった一行で、俺は死ぬ。
カップの中の紅茶が、小さく波打っている。手が震えているのだと、少し遅れて気づいた。
「リュカ様、やはりお加減が……」
「大丈夫だ」
大丈夫じゃない。全然、大丈夫じゃない。
でも、ひとつだけはっきりしていることがある。
俺は、この物語の作者だ。
誰よりもこの世界を知っている。誰が何を隠し、何に怯え、どこで間違えるのか。全部、知っている。
だったら、やることは決まっている。
一行で死ぬ当て馬の人生を――作者の手で、推敲してやる。




