第七章 禁断のシーズン ⑤
第七章④
オレたちはウマの引きこもりの原因を考察した。その別れ際、オレはノラ嬢に惹かれている自分に気づく――
正直なところ、あの日別れ際にノラ嬢がいった言葉は単なる儀礼的なものだと思っていた。だからオレは、いつかカエデに彼女の連絡先を教えてもらおうと思っていた。彼女にウマの家の跡地を案内してもらうということを理由にきき出すつもりだったが、どうせカエデのことだ、ヘンな想像をするにちがいない。
事実、オレはノラ嬢にもう一度会いたかった。それはカエデが想像する通りのことだったろう。ただ、それを見透かされることが鬱陶しかったのだ。だから、なかなかカエデに連絡できないでいた。
しかし仕事中でもちょっと手が空くと、なぜかノラ嬢のことを考えるようになって、このままではマズイと思うようになった。放っておけば置くほど、頭のなかを彼女が占領する頻度が高くなるのだ。生来の造形物を記憶する機能が脆弱なため、彼女の顔を思い出せないのが皮肉で、なおさらあの夜のチャーミングな女性のことばかり考えるのだ。なんとかしなければ、この先ずっと四六時中彼女のことを考え続けることになる。
次の週末あたりにはカエデに連絡しようと思っていた矢先のことだった。それは仕事から帰ってきて、いつものように暫しぼんやりと窓の外を眺めていたときだ。
まだ陽は完全に暮れてはいない。学生時代には、まだこの部屋にエアコンがなかったから網戸だけにしていたのだが、いまは快適に過ごせるようになった。
その代わりに季節の変化に気づけなくなった。春先になれば芽吹きの青臭いような香りがしたし、梅雨どきには埃臭い湿気の匂いがしたものだ。いまはメディアを含めた視覚情報に頼るだけになった。
そんなとき、ふと学生時代が懐かしくなったりするものなのだ。住み心地がよくなったのに、もうあのころ頻繁に屯っていた仲間たちは一人もこなくなってしまった。なんだか昔より殺風景になった気さえする。
モバイルを机の上に置こうとしてメッセージが入っていることに気づいた。
《こんにちは。野村です。このあいだはありがとうございました―― 》
――ウソだろ?
オレは目をこすった。こちらから連絡をとろうと思っていたのに、と。
メッセージの内容は今度の土曜日の午後に時間が取れるので、ウマの家を見にいきませんか、ということだった。
なんという運命的なメッセージだろうか、とオレは興奮した。ノラ嬢はオレとの約束を憶えていたのだ。忙しい教員という職業の合間を縫って、しかも天然の大穴が身体の中心部に空いているという体質なのにも拘わらず、だ。
時間を見れば、まだもらってから一時間も経っていない。オレは急いで返事を返した。どうせいくに決まっているのだが、その日は日直の当番だった。日直は普段通りに出勤して、別日に休みを取るという月に二回ほどある留守番勤務体制なのだが、夕方ならまったく問題はなかった。
そう返事をすると、すぐにまた彼女から返事がきた。こういうときこそアカウントをお互いが知っていれば、リモートで直接相談できるのにと思うかもしれないが、こんな前時代的なコミュニケーションの取り方も悪くないと思えた。実物を目のまえにしたら、身構えるだろうし、会うときの期待度が高まる気もした。
彼女も夕方の方が余裕を取れるというので、ウマの地元である東村大和の駅まえで待ち合わせる約束をした。その夜は興奮のあまり、まともに寝られなかった。
当日、オレは東村大和の駅まえに降り立った。都下多摩地区を縦断するモノレールのほぼ端から端までという距離を経れば、初夏の陽気だとしても日は暮れる。
公共の交通機関でこの地にくるのは初めてだった。学生時代はウマのウチに遊びにいくときでも、乗り換えが面倒なことから常にクルマだった。
賑やかな駅まえとはいえ、もう夜の帳が降りている。オレは、この仕事に就いてからモニターと睨めっこをする日常で、かなり乱視気味だった。不案内のうえ、夕方のモールで人の顔を見極める自信がなかったのだ。
しかも、一度しか会ったことのない人の顔を憶えられないという最大の欠点があった。ノラ嬢の印象といえば先だっての別れ際に見た、すごくチャーミングなコということ以外なにも残っていない。彼女はただでさえ巨大ブラックホールを抱えているのに、オレの顔など憶えてくれているのだろうかと不安でしかなかった。
高架駅を降りた階段の脇にあるドラッグストアのウィンドーのまえで、通り過ぎる若い女性の顔を追い続けるオレだった。なにしろカワイかった印象しか頼りがないので、もう一度見てもわかる気がしなかった。カワイイコは、みんなノラ嬢かもしれないと思えた。
もうそろそろ約束の時間になるのだがノラ嬢はくるのだろうか、と心細くなってきた。この期に及んで彼女の巨大ブラックホールが威力を発揮しないだろうな、と心配になったが、こちらから催促するのも憚られた。もしかしたら仕事かもしれないではないか。
駅からロータリーを回ってアーケードに侵入してくる人たちの波をじっと見ていると、もしかしたら見る方向がちがうのではないかなどと、普段なら考えもしないことに思いが及んだ。彼女は地元なので、反対側からくる可能性もあると後ろをふり返ると、それらしい若い女性が独り歩いてくるのが見えた。暗いので顔までわからないのだが、オレが待ち合わせている女性らしい背格好だった。
ノラ嬢にまちがいないと思い、手を上げようとしてとどまった。顔が見えると、ますますわからなくなったのだ。カエデくらいの背丈なのだが小顔で、ちょっとキツいくらいの美貌の女のコだった。グレーのスーツがどこかの高校の制服みたいに見えて、齢もオレたちより若い世代なのではないかと思えた。
いくらカワイイ印象があったとしても、彼女はこんなだったか?と戸惑った。だが、その女性はオレを見つけると迷いなくこちらに歩み寄ってくる。すぐそこまでくる間、あまりのシャープな美くしさから、ずっと怒っているように見えた。
「待ちました?」
やはりノラ嬢だった。オレは緊張した。彼女がこんな美人だったかと思うと、これから先のことが思いやられた。どんな立居振舞をすればいいのか、憂鬱になるほどだった。
「いえ、ボ、ボクもいまきたところです… 」
これがいつものオレであるはずはなかった。八川で最初に会ったとき、オレはどんな無礼な態度だったのか、考えただけでも恐ろしくなる。
近くで見ると、そうだ、たしかにこのコはこんな顔をしていたと思いだすことができた。端正なパーツが整然と配置された穏やかな笑顔で物腰の柔らかい喋り方をするところは、あの夜、八川で別れたときそのものだ。女のコは距離の遠近だけで、こんなに印象が変わるものなのかと惑わされた。
たしかにウマのいうとおりだったかもしれない。遠目で彼女を見れば、その冷たい魅力に近寄り難さを感じただろうし、同級生にハナもひっかけない気位の高さを感じるようなクールビューティにも見えただろう。
「ちょっと用事がいろいろあって、遅くなりそうだったんで急いできたんです」
「大丈夫ですよ。くるまでずっと待ってるつもりだったんで」
彼女は手で口を抑えて軽く肩に触れた。
「秋野サン、やさしい」
オレは指で彼女の顔のまえをワイパーのように振った。
「その呼び方はダメ」
「あ、そうか―― 秋野クン、やさしい」
「ボクもノラチャンと呼ばせてもらいますから」
「どうぞ。なんだったら呼び捨てで」
「キミはこの間から、なんだか呼び捨てに拘ってるように感じるんだけど」
オレは疑問に思っていたことを率直にぶつけた。
「親近感があるじゃないですか、呼び捨てって。秋野クンは照山サンのことを〝カエデ〟って呼んでるでしょ? ドラマやマンガでも、男の子が女のコを名まえで呼び捨てにしてるのに憧れちゃうんです」
オレは奇妙な感覚に襲われた。まるでノラ嬢はオレと親密になりたいみたいではないか。もし、そうならオレは嬉しいのだが。
「ミネコサンを呼び捨てなら、まだわかるけど〝ノラ〟はねえ」
「いいですよ、好きにしてください」
ノラ嬢はオレを促すようにしてロータリーの外へ歩き出した。いつもクルマでしかきたことがないので、駅とウマのウチとの位置関係がわからなかった。
「歩きでいけるんでしょ?」と彼女にたしかめると、先を歩くノラ嬢は「十分もかからないですよ」という。
ロータリーを外れると通りに沿って、いきなり住宅街になった。路地の角々には街灯があるにせよ、思った以上に暗い街路なのだ。
「ノラチャン、いつもこんな暗いところを帰るの?」
まえを子どもみたいな内股で歩くノラ嬢は黙って頷いた。
「物騒じゃない? 怖いだろ、夜なんか」
「慣れちゃいました」
「こんなところに慣れちゃイカンと思うがな、ボクは」と独りごとのようにいったが、きこえないフリをしているのか、反応はなかった。
こんな真っ暗な路地は物騒だし、だいたい見当識がアテにならないオレは、路地を入ったとたんにいったいどこをどっちに向かって歩いているのかさえ、わからなくなっていた。独りだったらとても脱け出せない。
とくにこんな陽気がよくなってくる時期には、なにを考えているのかわからないヤツが出てくるのだ。オレは無性にノラ嬢のことが心配になった。
「ノラチャンのウチはここから近いの?」
「この先のブロックのはずれにあるUR住宅なんです。ここから五分くらいかな」
「その間、ずっとこんな心霊スポットみたいなところを歩くの?」
「いつもは向こう側にある大通りを帰るの。モノレールの下の通り。大目街道との交差点をこっちに戻るように遠回りするんです」
本当はこの道の方が近いのか。それをきいて少し安心した。こんなキュートなコがこんなところを往き来していたら、いつ何時どんなヤカラの餌食になるかもしれない。
そんなことを考えていたら、不意にノラ嬢は立ち止まるのだ。そこがまた街灯の明かりもろくに届かないような暗い路地だった。
「ここだと思うんですけど」と、あさっての方向を見ながらいう。
たしかに住宅と住宅の間が広く空いていた。だがオレは、まったくこんなところにきた憶えがなかった。窓から明かりが洩れている家ももちろんあるのだが、ここはこんなに暗かったっけ?と懐疑的にならざるをえない。
「ここがウマのウチ?」
オレはロープの張ってある空き地を指さした。夜目には真っ黒なホンモノの更地としか映らなかった。
「かつてのね」とノラ嬢は、やっとこっちをふり向く。
もし、ここが以前に遊びにきたことのあるウマのウチがあった場所なら、言葉に出せないほどの衝撃だ。オレは呆然とその空間を眺めた。これが昼間なら、まだそこまでのダメージは受けなかったかもしれない。
オレの目には、まるで獲物を狙って口をあけている巨大な空洞にしか見えなかった。ウマの一家は、この真っ黒い奈落の入口に呑み込まれてしまったような錯覚に陥った。
「暗くてわからないんですけど、ここに《売地》って立て看板があるんですよ」とロープの内側をノラ嬢が指していう。
まちがいない。ここにウマのウチがあったのだ。オレはくるのではなかった、と後悔した。まるでウマの心のなかの、ノラ嬢どころではない暗黒ブラックホールを覗いているみたいで恐ろしかった。そのブラックホールがウマの家族ごと呑み込んでしまったようなホラーストーリーさえ想起させる。
あの夏のダークなバイトのことが、すぐに思い浮かんだ。市役所から頼まれたという所在確認の仕事だ。西日が強く射しこむ夕方訪れた社員寮みたいなアパート。ドアを閉めると真っ暗な屋内の様子が目に浮かんだ。薄暗い電灯に照らしだされた窓のない廊下の、あの奥の暗闇を思い出すとゾッとした。
ウマも似たような闇を見たはずだ。
――「社会の底辺ばかりを見ているようでメンタルによくない」といっていたのはオマエだろ?
ホンモノの引きこもりなら、ウマはアレとおなじ闇に堕ちたも同然だ。その闇はブラックホールのように近づくものを巻き込んで感染していくように思えた。
最初に闇を見せたのはバイトに誘ったオレともいえる。
――オレがウマを闇落ちに追い込んだのか? いや、ちがう!
オレは必死にその考えを打ち消そうとした。そしてオレはノラ嬢の手を引いて、急いでそこをあとにした。彼女は突然のことに、驚いたみたいだった。
「えっ、どうしたの?」
オレは無言でノラ嬢の手を引っぱり、速足で歩いた。見当識がないにも拘らず、なにしろ明るい路地に出なければと焦っていたのだ。ずいぶん長い時間さまよったように感じたが、やがてどっち方向なのかわからない賑やかな通りに出た。
オレはそこで、やっと彼女の手を放した。ノラ嬢は、きょとんとした表情でオレを見ている。
「なにか見たんですか、ヘンなものでも?」
オレは呼吸が整うのを待って、彼女にいった。
「見てはいけないものを見た気がしたんだよ」
息を切らせて膝に手をついていたが、ゆっくりとノラ嬢を見上げると、高架のガードからこぼれる鮮やかな照明を浴びて、あいかわらず端正な顔を確認できた。どうやら、住宅街をぬけてモノレールの走る高架下の通りに出たようだった。
「ノラチャン、晩メシ食ってないでしょ?」
ノラ嬢は硬い表情を崩して笑顔になった。正直、彼女は笑っている顔よりも怒った顔の方が美しかった。だが、このときばかりは安堵の気持ちになった。
そのあとオレたちは通り沿いにあるファミレスで食事を摂ったのだが、気が動転していてなにを喋ったのか憶えていない。ただでさえ、こんなキレイなコと二人きりで食事したことなどなかったので固くなっていたのにはちがいがない。
これがカエデなら、いくらでもくだらない、どうでもよい話に広がったかもしれない。あるいは、お互い知っているだけにウマの闇落ちを深刻な顔で考察していたかもしれない。
なにより皮肉なことは、ウマの憧れのマドンナが、よりにもよってオレとここにいるのだ。ウマがいなくなったことがオレと彼女を会わせたようなものだ。
唯一憶えているのは、駅で落ち合ったときに見せたノラ嬢の強ばった表情が怖かったといったら、彼女は笑いながら「アタシ、目がわるいんです。だから、ちょっと離れたところを見るときには険しい顔になるみたいなの」と意外な情報を教えてくれた。もし彼女が常にメガネをかけていたら、その後の展開は変わった可能性もある。
はっきりいえるのは、このコといると自分の暗黒面を忘れられるということだ。オレにはそぐわない女性だと思う反面、妙な安心感があった。
それきっかけでノラ嬢と頻繁に会うことになるとは想像もしていなかった。結局ノラ嬢のウチには、なにかにつけていくようになるのだが、いつもウマのウチがあった住宅街の一角にはトラウマのように近づけなかった。
オレの知っているマイペースで能天気で、ときにはコメディリリーフのような役も担っていた彼のキャラクターとは、どうやっても結びつけられないダークな坩堝を見たのだ。そこにオレも吸い込まれるかもしれないという危惧を感じていた。
ウマのイメージは、オレの好きな〝ウミユリ〟の『ブルー・サバーバン・スカイ』から受けるものとおなじはずだった。それは同時に、その曲が挿入歌として使われている映画『夏草のいざない』をも連想させた。そして、それ繋がりでアヤのことも記憶の表面に引き出すのだ。そこで、やっとアヤを思い出すほどになっていた。
歌詞に出てくる《そこは郊外の青空の下にある…》という一節が、なにも考えずにシアワセだった大学時代の彼らとのエピソードを彷彿させた。アヤやカエデやポテチ、エルザといった顔ぶれのなかにライト感覚な顔のウマもいた。あのころとはあまりに大きな落差があって、とても現実に起こった出来事とは思えなかった。
つづく
毎週金曜日23時に更新します。
*作中の人物、団体、作品等の名称は、実在する一部を除き、特定のモデルはありません。




