第七章 禁断のシーズン ②
第七章①
エルザから突然ウマが大学にこなくなったときいて、その理由を探ろうとするオレ――
それから、ひと月も過ぎたろうか。
ウマのことが頭から離れなかったオレは、ろくにバイトにも身が入らず、ここのところだいぶ時間がかかってしまうことが多くなった。おかげで今日などは最後の方が夜の九時過ぎになって、届け先のお客さんからはいい顔をされなかった。
それはそうだろう。時間指定もしていないのに、こんな時間に宅配がくるのかと怪訝に思われてもしかたがない。
十時過ぎにウチへ戻る途中のクルマのなかでモバイルが鳴った。カエデだった。
「珍しいじゃないか。もしかしたら初めて電話くれたんじゃないのか?」
《秋野クンに頼まれたから調べてあげたんでしょ。そうじゃなかったら、アンタのところに用なんてないわよ》
「これは失礼しました… 」
おどけたつもりだったのに、こんな厳しい返しをされるとは思わなかった。
「それで? それで?」
《オンマサンの同級生かどうか、本人に確認をとったわけじゃないんだけど、一人それらしいのを見つけたのよ!》
「いたか!」
《いたの! それもアタシのすぐ近くにいたの!》
「知ってるコなの?」
《おなじ必修のクラスのコなんだけどね、東村大和から通ってたのよ!》
「それだ! そのコにきいてみてくれよ」
《なんて?》
「ウマがどうしてるのか知らないかって」
カエデは、しばらく返事をしなかった。おそらく、そのときのことをシミュレーションしているのだろう。そうして、ようやく《うん、わかった》と呟くようにいった。
《でもゼミがちがうから、その講義まで会えないかもしれないよ》
「いいよ、頼むよ」
だが、そのときにカエデは肝心のことを忘れるに決まっている。それどころか、オレが憶えているという自信もない。ウマのことが闇に葬られるのは時間の問題と思えた。
あの楽しかった二年次とちがって、三年次はあっという間に過ぎた。四年生になるとオレに限らず、みんなキャンパスにこなくなる。就活も、もう大詰めなのだ。それどころではなくなる。ウマのことなど、いつの間にやら忘却の彼方に消え去っていた。
こんな時期になってオレは初めて就活に興味を持った。自分で個人事業者としてバイトの延長を生業とするつもりだったはずなのに、まわりが忙しそうにしているのを見ていると、こんな機会はこの先二度とないのだろうなと思えてきた。自分が社会にどの程度必要とされているのかを試してみるか、と考えるようになったのだ。
それに学生課の就職担当の先生からは、個人事業者はあまり感心しないみたいなことをいわれた。いまからでも遅くはないから就職先を見つけてはどうか、というのだ。個人事業者は、そのあとでもできる、と。
その年はバイトと卒論に全力を注ぐつもりでいたのだが、夏休みも明けた九月からDMをくれた企業の説明会などにいったりした。そもそも希望の職種などないわけだから、ありとあらゆる企業にいった。
オレは卒論のテーマが企業広告だったから、広告代理店から始まって着物の業界誌や楽譜の出版社、さらにはIT関係の派遣会社、ジーンズのメーカーの会社説明会にまで足を延ばしたが、もはや出足の遅さから手ごたえはまるでなかった。こうなれば、もう個人事業者になるしかないと思い始めた。どうせ、そのつもりだったんだ、べつにいいさ、と。
そんなことをやっているうちに年は明けた。
問題の卒論の作成もいまとなっては、いったいなにを書いたのか記憶にないのだが、参考文献のまる写しにも拘らず最後の最後まで修正があって、提出期限の三日まえから徹夜でやっつけたことだけは憶えている。窓口提出が間に合わなくて、教授の自宅へ届けたのだ。そのへんのフットワークの良さだけはバイトの要領が生きた。
そのときのことだ。
卒論担当のフモト先生のお宅は、ウチから一時間ほども国道を南に下がった瀟洒な住宅街のなかだった。ナビを頼りに近くまでいったが、どのウチかまではわからなかった。表札の出ていない、ちょっと矍鑠とした門のウチがそうみたいだと思ったオレは、恐る恐るインターフォンを押した。すぐにドアが開いて先生本人が出てきた。
小柄でさえない背広、白髪交じりの毛量の多い頭髪を油で固め、黒縁のメガネに指をかけて、こちらを確認する姿は大学で見るときと変わらない。家でもこんな格好をいつもしているのか、それとも来客があったのか。オレは焦っていたせいでアポイントもなにも取らず、いきなりきたのだった。できれば本人ではなく、家の人に預けて、早々に退散しようと思っていた。
「おう、秋野クンか」
「突然ですいません」
「ウチに届けにくる学生がいると思ってたから待ってたんだよ」
メガネ越しに含み笑いでいう。なるほど。だからゼミのときとおなじスタイルだったのか。
「ボク以外にもいるんですか?」
「まだ何人かね」
「遅くなってすいません」
「まあ、上がりなさい」
「いや、もうここで失礼します」
「そんなこというなよ。せっかく、こんな遠いところまできたんだからお茶ぐらい呑んでいきなさいよ」
「はあ… 」
オレは卒論が終わるまでバイト先には休むことを申請していた。オレに時間があることをまるで見透かされているようだ。
客間に通されるなりに「キミの下書きは全く参考文献をまる写しだけど、すこしは工夫したの?」と辛らつなことをいわれてしまった。
「参考文献は少なくとも十冊くらいは挙げないと参考文献にならないよ。一冊じゃあ、ただのまる写しだ」
仮提出したものは、たしかにそうだった。バイトが忙しすぎて本など読むひまがなかったのだ。だが、今回は何冊か参考にしている。ただ、十冊は読んでいない。まる暗記するなら必死に読むが、どうも催眠作用が強すぎて参考以前の問題なのだ。
先生は論文の最後に載せる参考文献の部分に目を通して、ヘンな笑みを浮かべた。
「ふうん… 」
オレはソファに座らされて、まんじりともできなかった。
やがて先生はそれを持って奥に入ると、今度はお茶を持って戻ってきた。
「今日は家内がいないんだよ。ボクが家にいるのをわかってるから、とっとと出かけちゃった」
オレはどんな反応を示せばいいのか、わからなかった。まさか、こんな場面になるとは思ってもみなかったのだ。先生と顔を突き合わせても、なんの話題も出てこない。お互い、ろくにゼミに出てこない者同士なので、どんな人なのかもよくわかっていないのだ。
「就職は決まったの?」
先生はお茶を一気飲みしてきく。
「はあ、それが… 」
「決まってないの?」と眉を持ち上げる。
「ずっと宅配のバイトをやってるんで、個人請負をしようかななんて―― 」
オレがいい終わらないうちに「ちょっと待ってて」といって、部屋を出ていった。
「?」
隣の部屋か、すぐ外の廊下かわからないが、なにか大声で先生はモバイルしている。ドアが開いているのできこえはするが、こもって内容まではわからなかった。「ボクの方でなんとかするから抑えといて」みたいなことをいっているのだ。
なんだか忙しそうなので、戻ってきたら失礼しようと思った。
ところが、戻ってきた先生はいうのだ。
「キミは希望の職種あるの?」
「特にないです。安定してればどこでも… 」
「じゃあね、ここに連絡してみなさい。話は通しておくから」といって、だれかの名刺を渡してくれた。
なんでも先生が評議員をやっている社会福祉法人の事務長の名刺だという。どうやら、その事務長に連絡していたようなのだ。
オレは先生のお宅から失礼して、ウチに帰ってからさっそく、そこへ連絡してみた。
事務長というのは物腰の柔らかい人だった。一度、面接にきてみてくださいといわれた。
自分でも驚くようなスピードで、あれよ、あれよという間に、話が進んだ。先生の紹介があったからか、それとも人員不足だったのか知らないが即採用になった。そこの経理の仕事をすることに決まったのだ。ホワイトカラーの仕事は予想外だったのだが、自分を試すつもりで勤めることにした。こうして思いもよらない仕事に就くことになってしまった。
考えてみれば、おかしなものだ。ウマはたぶん、こういう安定的で、ほぼ波のないデスクワークの仕事を希望していたのではなかろうか。そこでマイペースにノホホンと日々を過ごしたかったのではないか。それが銀行かといえば疑問だが。だから就職率の高い、退屈なゼミを選んだのではなかったか。
オレのようにろくに将来のことも考えていない、ソフトボールゼミで卒論をクリアしようとするフーテン学生が、頼りにならないと思われている教授の紹介で内定が出るとは思いもよらない展開だった。人生は皮肉だ。
忙しい一年はあっという間に過ぎた。思い返せばオレの大学生活は、ポテチに出会ったあの年の夏休みに尽きる。あれがなければキャンパスライフなど皆無に近かっただろう。
その日、キャンパスのある丘陵には鮮やかな桜が咲き始めて、春の陽にキラキラと輝いていた。
卒業式にエルザと久々に顔をあわせた。髪を短く切って、パリッとしたスーツ姿の彼は見慣れないだけに妙にコミカルに映った。
「無事に卒業できたな」
「ユウヒはバイトを続けるんだろ?」
「いや、それが」とオレはことの経緯を話した。
「そうだよ、それでよかったんだよ」とエルザは肩をポンと叩いてくれた。
「エルザに褒められるとは思いもしなかった」というと、彼は陽ざしを浴びてニコニコしている。エルザのこんな明るい表情を見たのは初めてかもしれなかった。いつもニヒルを気取って無表情な顔をしているのが彼だった。
「そういうオマエは、なに屋さんになるんだ?」
オレがきくとエルザは照れ臭そうにいうのだ。
「いやあ、なにを隠そう市役所に決まったんだ」
「ええっ!」
「なんだか現場の仕事らしいんだけど」
オレは愕然とした。口に出したことはないが、いままでウマと同程度か、それ以下だと蔑んで見ていた自分がいたことを恥じる思いだった。自分のことをなにもいわないが、人目につかないところで着実に努力していたのは、実はエルザだった。
「工事現場だろうと、事件現場だろうと公務員になったんだ、スゴイじゃないか!」
「いま、公務員はなり手がいないらしいんだ。だからだよ」と謙遜して見せた。
この期に及んで、なんでエルザがこんな見たことのない晴れやかな表情をしていたのかわかった。
「ウマにきかせてやりたかったな。地道にやればできるんだってことをな」
エルザはそれについてはなにも語らず、もう一度オレの肩をポンと叩いただけだった。
七分咲きの桜が目に眩しかった印象がある。
卒業式の謝恩会で一年ぶりくらいにカエデと再会した。彼女は無事に中学校の教師になったという。晴れの席だというのに、おとなしめの地味なパンツスーツ姿だった。いわれてみれば、いかにも教師といういで立ちだ。
「みんな、公務員になるな。員のつく職業になりたかったヤツがなれなくて… 」
「公務員だって、だれでもがなれるわけじゃないのよ。みんな、それなりに努力したの! だれよ、なれなかったヤツって?」
教師になると、さすがにいうことがちがう。
「秋野クン、公務員になりたかったの? だって公務員みたいなものでしょ、社会福祉法人の事務職って?」
「オレのことじゃないよ。まさか就職するとは思ってなかったくらいだ」
「ずっとバイト生活しようと思ってたの?」
「堅苦しいのはヤだなと思ってたんだよ」
「意外と自由人なのねえ。でも世間の目には勝てなかった?」
「なんとでもいえ」
オレは、こんなカエデの言い草にも笑えるだけの余裕があった。それはとりもなおさず、ひとなみに就職できたからにちがいなかった。どうせ就職は無理なのだから個人事業者でマイペースに日々を暮らせればいいやとタカをくくっていたオレが、こんな展開になっていちばん意外に思っているのだ。
「ところでカラ研の連中はどうした? みんな、進路はきまったの?」
オレは、なによりアヤのことが気にかかっていたのだ。ポテチに捨てられてからの彼女のことをまったく知らなかった。
カエデは右上四十五度の方向を睨みながらいう。
「ランちゃんは保育士になったよ。ミキちゃんはアタシとおなじ、地元で小学校の先生」
「アヤちゃんは?」
「彼女はどうしたのかな? 教育実習にもいかなかったみたいだし、家業の美容室を継いだって話もきかなかったな」
「それはどういうことなの? オレみたいに一般企業に就職するってことかい?」
「あとは専門的な分野にすすむか… 」
「学者か、なにか? せっかく教職課程をとってるんだから」
カエデは首を傾げて「わかんない」といった。あんなに仲がよかったのに、なにをしているのかもわからないほど疎遠になってしまったということなのか。
「ポテチクンは?」
「オレが知るわけないだろ!」
「冷たいんだ」
「どういうのが暖かいんだよ? 結婚してシアワセに暮らしているとでもいえばよかったのか?」
カエデは急に背を向けると「ひとは、ひとだからね」といった。
他人のことより、まず自分の居場所を確保することが優先という意味なのか。だれが冷たいのやら。
「ポテチのことだ、どこかの美人とヨロシクやってるかもよ」
「もう、いいよ。ポテチクンのことは」
カエデはこっちに背を向けたまま、返した。トゲはなかったが、それ以上ききたくないと背中で語っていた。
「そっちがきいてきたんだろ」
「オンマサンは?」
カエデにきかれて、なるほどと思った。オレもおなじようになっているではないか。無関心というわけではないが、ウマのことは口が裂けてもいえない。オレはなんと応えていいか困った。
「なんだか連絡がとれなくなったって、いつかいってたよねえ?」
そうだ、カエデにウマの同級生をあたってくれと頼んでいたことがあったのだ。オレもカエデも忘れていた。
「それきりだよ」
「それきり? じゃあ、行方不明のまま?」
「そりゃ、いい過ぎだけど。詳しいことはわからん」
ホントのところをいうのはさすがに憚られた。事実、その後のウマのことはわからないのだ。
できれば立ち直って、もう一年頑張っていてほしいのだ。ウマが自分の足で歩き始めなければいけない場面なのだ。いつまでも親のスネをかじってる場合ではないということを本人が気づかなければいけないところまできているのだ。さもないと、あの夏の暗黒バイトのように、遅かれ早かれ闇落ちすることが目に見えている。
――落ちるか、進むか、自分で決めるんだ。ウマ、がんばれ!
オレができることはここまでだった。そうしてオレたちのキャンパスライフは終わった――
つづく
毎週金曜日23時に更新します。
*作中の人物、団体、作品等の名称は、実在する一部を除き、特定のモデルはありません。
《夏のホラー2026》に短編をupしました。よろしければ読んでみてください。




