第六章 九月はだれにもわからない ④
第六章③
オレたちは問題の『税政原論』の年度末試験に臨んだが、ウマは予期せぬ信じがたいトラブルに見舞われる――
そしてオレたちの試験最終日。
ウマやエルザがそれなりにまとめたものと、自分の分とを合わせてつくったアウトラインが通用するかどうかの審判の日だ。
もうひとつ答えが出るものがある。
この試験は必修科目だから、オレたちの専攻は全員が受けるはずだ。そのなかにポテチがいるかどうかも、今日はっきりわかるはずだった。
試験会場は、このまえより大きい階段教室だった。オレたちは例によって、おなじポジションで席に着いた。オレにとってはなんの意味もないが、とくにウマには重要な意味があるみたいだ。
「今日はまる暗記してきたんだろうな?」
オレは後ろのウマに、きこえよがしにいった。
「オレがまとめりゃよかったよ。まる暗記じゃ、まったくアテにならない。ストーリーが頭に入らないから言葉を忘れるともうダメだ」
背後からモゾモゾと恨めしげな声が響いてくる。
「オマエがまとめられるんなら、なんでオレのところなんかに持ってくるんだ?」
「うるさいやい。もう、やり方がわかったからユウヒなんぞに頼らないで済む」
「これもあれも追試がないんだろ? やり方覚えるの遅くないか?」
それきり背後の反応はなくなった。
実はオレも、ウマではないが記憶領域がパンパンだった。いくらアウトラインだ、なんだといっても、二十枚もあるコピーをまとめたとして、そうたやすく覚えられるわけがない。ホントに頭を傾けるだけで耳から記憶したものが流れ出そうになる体験をした。できるだけ早く、メモリーから今日だけのためのゴミを掃き出してしまいたかった。
「早くしてくれないと忘れちゃうよ」
またウマのヒステリックな声がきこえてきた。オレは余裕を装いながら「コピーを見返してればいいじゃないか」といった。
「始まったら一気に打ち込んで頭のなかを空っぽにしたかったから、手ぶらできた」との返事。
「神様がオマエは留年しろっていってないか?」
「ふざけるない!」
ウマは銀行の内定が早々に決まったと思い込んで、今回の試験は妙に神経質だった。いつもの間延びモードの彼とは、あきらかにちがってトゲトゲしいのだ。
オレは自分で一回だけコピーに目を通してから、それをウマに見せてやった。
「オマエはいいのか?」というので、親指を立ててウィンクしたら、また激しく歯ぎしりをした。
開始の指示があってからは脳ミソのなかのモノが、ごった煮にならないうちにキーボードに叩きつけた。設問など読んでいる暇はなかった。もう容量オーバーなのだ。頭に入っているものを掻きださないと新しい情報を受付けなくなっている。
会場内のあちこちからは鈍いキーボードを叩く音以外はきこえなかった。オレの後ろの連中などは呼吸をしていないのではないかと思えるぐらい気配がない。あたかも、にわか雨が降る墓場みたいだ。
そんななかでオレは、ひたすら覚えていることを順序だてて打ち込んでいった。いくら打っても、まったく終わる気がしないくらい次から次へと出てくる。さいわい何度も何度も繰り返し暗唱していたために、いつかのウマのように忘れることはなかった。
ふと気づくと解答シート二ページ目もだいぶスペースがなくなっていた。こんな量があったのだ、と思い知ることになった。このままだと三ページ目に突入しそうだった。
あらためて設問を見ると、その二問目にあたる部分が、いま打ち込んでいる大容量のコピーであることがわかった。かりに一問目をマスターしようとしたら、どんなことになったのか想像すると末恐ろしい。
なんとか解答を入力して、さらにその大作を読み返していた。先日の『 税政原論』もそうだが、長い学生生活のなかで答案を顧みるなんてことがなかったのに、やはり留年がかかっているとなるとそこまで用心深くなるものだ。
時計を見れば、このまえの『税政原論』とちがって恐ろしく時間を喰っていた。それでも、まだ若干の時間が残っている。そこでふとイロ気が出た。
一問目を読んでみると講義に一切出ていないオレでも、なにか書けそうなほど簡単な設問に見えたのだ。なにも書かないよりかは、なにか書いておいた方がマシなのではないかと考えた。
《需要曲線の見方》みたいな、いたってシンプルな問題なのだ。あまりたくさん能書きを垂れると三ページ目に突入しそうなので、スペースがあるぶんだけの簡単な解答を自分なりに打った。それをさらに読み返して、最後に通して読み返した。もうやることはない。
ウマたちは、もう会場を出たのだろうか。あいかわらずの静けさだ。すでに送信受付のサインが出ていたので、オレは提出して会場を出た。出るときに気づいたのだが、エルザはもう姿がないのに、ウマはまだ粘っていた。またムダな悪あがきをしているのではないだろうか。
おもてに出るとエルザが待っていた。
「早かったな」
「とっとと打ち込まないと覚えていたものを忘れそうだったからな」
こんな、なにも考えていなそうなエルザですらオレとおなじようだったのかと思うと、こいつは意外に努力を隠しているのではないかと思える。やるべきことをちゃんとやって試験に臨んでいるということだ。そう考えるとオレのように、ここ一番というときでないと真剣に取り組まない人間こそ、世のなかをナメているのかもしれない。
それからウマが出てくるまでエントランスのベンチに座って、ぼーっと待っていた。
「なんとか終わったな」
これはオレの正直な感想だったが、エルザは愛想笑いのような微かな笑みを浮かべて頷くだけだった。彼はめったによけいなことをいわない武骨なところがあったが、ポテチとはまたちがった男らしさにも見えた。ホントはだれよりも余裕があったのではないかと、改めてエルザを見直した瞬間だった。
やっと頭のなかをクリアにできたと思うと、妙に眠くなってきた。うつらうつらしているときに、ふいに脇腹をつつかれた。
「?」
寝ぼけまなこでエルザを見れば、おもての芝生の向こうを指さしている。
「おい、あれ… 」
「え?」
エルザの指さす方向を見れば、キャンパスの隅にある駐輪場から一台のバイクが出てくるのが見えた。二人乗りで校門に向かっているようだ。
「ポテチじゃないか?」
「エッ!」
オレは急いで、そのあとを追った。人間の足で追いつくわけはないが、構内はそんなにスピードが出せないし、こっちの方が校門に近かった。
バイクは校門の手前で一時停止した。テールしかわからないが、たしかにポテチのバイクみたいだった。西伊豆行ではタンデムしただろといわれるかもしれないが、夜だったし、バイク自体に興味があったわけじゃないから、うろ覚えだったのだ。タンデムシートに座っているのは、ちょっと華奢な体形の人に見えた。ヘルメットのうしろから黒髪が垂れているところを見ると女性かもしれない。
――アヤ…?
オレが認識できるほど近づくまえに走り去ってしまった。ひとたび校門を出てしまえば、もう無理だ。オレはゆるゆるとスピードを落として、そこに佇んだ。
たしかにポテチだとはいい難いが、そうだといわれれば、そうかもしれない。ウマが見たのも、いまの二人組だったのではないか。
しかし、もしポテチだとすれば、あれ以来まったく連絡がない理由がわかる気がする。辞めていないことをなんらかの事情でオレにいい辛いのかもしれない。
子どもまでできたのに結婚を許されなかったとか、その結果、婚約者と離れ離れになって、おまけにオレとアヤを引き合わせようと企んでいたものが、自分がアヤといい関係になってしまったとか…
そもそもあの夜、オレにだけ打ちあけたヤツの秘密の事情こそが最初から無かったことなのではないのか?
ただ、それがヤツの虚言なら、ずいぶん念の入ったことだし、そんなことをする理由がわからない。たったいま走り去ったのは、やはりポテチではないとした方がしっくりくる。
せっかくクリアになった頭のなかをまたそんなことでこねくり回して歩いて戻ると、ウマが出てきていた。このまえとちがって、いかにも完璧にできたという得意げでもあり、ちょっと気取って険しく装っているようでもあった。
「ポテチだったの?」
オレは「わからん」というジェスチャーで応えた。
「この間、オレたちが見たのとおなじバイクだった。あれはポテチでまちがいないよ」
エルザは自信満々にいい張るが、乗っている人間がちがっていればポテチのバイクと決めつけられない。
「ホントにポテチかよ?」
「ポテチだよな、アレ?」
ウマも頷く。
「ヘルメット被ってて、よくわかるな」
「だって、バイクがポテチのだもの」
「おなじバイクに乗ってるヤツだっているだろ?」
「絶対とはいい切れないけど、あれは古い型をカスタマイズしてるから、まずまちがいはない」
昔バイクに乗っていたエルザがいうなら、それなりに説得力がある。
「去年の夏休み以来まったく顔を見せないよなあ、アイツ… 」
エルザの言葉には反応できなかった。オレ自体、なにがどうなっているのかわからなかった。
シビレを切らしたように不愉快そうな顔をしたウマが口を開く。
「そんなことよりオマエら、できたのかよ?」
ウマは、いましもオレの出来をきいてくれといわんばかりの顔つきだ。オレはいってやった。
「そういうオマエはできたのか? なにをいつまでも頑張ってたんだ?」
「いや、完璧だったけどさ。いちおう念を入れて何回も見直してた」
「そりゃあ、よかったな。帰ろ、帰ろ」
オレとエルザが歩きだすとウマは慌てていうのだ。
「ちょっと待てよ、オマエらはできたのかよ?」
「オマエとおなじものを暗記してるんだ、できたに決まってるだろ」
「なんだ、できたのかよ」
突然、苦虫を噛み潰すような顔であとをついてきた。
「できたヤツが多いと《A》を貰えにくくなるからなあ」と、まだブツブツいっている。
「たまには学食でメシ喰っていくか」
オレは不意に思いついて、ふたりをお供させた。今日はオレたちの専攻の最後の試験だったし、バイトは休みを貰っているので完全解放だった。自由な時間がいっぱいある。
「今日みたいな日にはオマエらいつも、なにしてるんだよ?」
ウマもエルザも考え込んで、「なにっていってもなあ…」と首を傾げるばかりだ。
「どうせ、ぶらぶらしてるんだろ? なにかしようぜ」
「ユウヒ、バイトは?」
「今月いっぱい、休み貰った」
「スロットは?」
エルザの提案にウマはシカメ面をする。
「カネを入れるだけだ。入れるだけで解約できない積立預金」
「――だよな」
「映画でも観る?」
「なにか観たいのがあるの?」
「とくに…」というエルザにウマはいう。
「『ゴリラ X イヨマンテ』は?」
「面白いのか、それ? 中学生じゃないんだから」
アヤだったら、いきたがるかもしれないとオレは思った。
「こんなときにポテチがいればなあ」とウマは呟く。
オレはウマの顔を見た。
「ポテチなら、なんだよ?」
するとエルザが「囲めるって」と倒牌の手ぶりをする。
「マージャン? そんなもの、オレたちじゃなくても亜空間でいつでもできるだろ?」
「メタフィジカルはホントの顔が見えないから怖いよ」とウマはいい、「このあいだ亜空間マージャンにハマったヤツからきいたんだけど、点ピンのつもりで卓についたら点50の席だったんだって。もう真剣そのもので口もきけなかったっていってた」
「笑わすな、オマエは!」
にも拘らずエルザはマジメくさっていうのだ。
「点50ってハコでいくらよ?」
「十五万くらいかな」とオレがいうと「いや」とウマは首を振る。
「そのまえに逮捕だ」
どうやらウマは、いつもの調子に戻ったようだった。
オレたちはそんなことを話しながら、中庭の方から学食のテラスへ入った。気づかなかったのだが、そこはいつもカラ研の連中が場所を占めていたテーブルだった。こっちに手を振る女のコを見て思い出した。
カエデだった。
「よお、しばらく。終わったの、試験?」
彼女や、おかわりシスターズは首を振るのだ。
「アタシたちは今月いっぱいまで日程が詰まってるのよ」
「教育学科は科目が多いんだっけ」
「パンパンよ」
「そりゃ、あいにくでした」
オレはウマの肩を叩いて「ほら、カエデがいる」と、わざとらしく教えると柄にもなく照れて「わかってるよ、うるせえな」と顔を赤らめた。
オレたちは彼女たちの横に腰を降ろした。よく見れば、だれか足りないではないか。やはり、さっきのはアヤだったのか?
「おい、いつもより少ないんじゃないのか?」
カエデにきくと「?」という表情なのだ。
「いつもより少ないって、なんのことよ?」
「メンバーが足りてないだろ、レギュラーメンバーが」
そういうとカエデは勘ちがいしたのか、ヘンなことをいいだした。
「レギュラーメンバー? そういえばポテチクンは?」
――なんだって…
もっとダイレクトにききたいことを尋ねればよかったのだが、アヤの名まえを出すのは、ウマではないが照れがあった。かえってヤな話題をふったと渋面になったかもしれない。
「もう帰ったよ」
素っ気なく応えたのはエルザだった。
「ああ、アヤが送ってもらうっていってた」
そういったのは、おかわりシスターズのランちゃんだか、ミキちゃんだった。
「やっぱりポテチだったんだ、さっきのバイク」とエルザ。
「ということは、後ろに乗ってたのはアヤちゃんだったのか」
「アヤちゃんが?」
オレのヘンな驚きかたは、そこにいた全員のまなざしを集めた。
「どうしたの、秋野クン?」
カエデが、そんなに驚くほどかと不思議そうに見ていた。
どうもこうもないだろう。かつてポテチがアヤにしつこく連絡してくるから、なんとかしてやってくれといってきたのはアンタだ。
「ポテチとアヤちゃんはつき合ってるの?」
「知らないわよ」とカエデはそっぽを向く。
オレは、それ以上きき出せなかった。
カエデは、あの日のことを忘れてはないだろう。オレが彼女から「なにもするな」といわれた通りにした結果だといわんばかりなのだ。
そうかといって本当のこともいえない。オレがポテチのセッティングでアヤと会ったなんていったら、ますますヘンな疑いをかけられかねない。
どうやら、さっきのバイクの二人乗りは、アヤとポテチでまちがいなさそうだ。
――どういうことになってるんだ?
もうポテチの婚約者がどうの、なんてことは考えられなかった。ポテチは婚約者がいながら、西伊豆ではナカサンとべったりで、夏休みが終わってみればアヤといい仲になっている。見たままのサイテーな男になり下がっていた。
オレには、これ以上どうしようもなかった。目のまえが真っ暗になるようだった。
「オレ、帰るわ… 」
メシに誘ったオレが突然帰るといいだしたので、様子がおかしいと感じたウマやエルザは戸惑っていう。
「どうしたんだよ、ユウヒ?」
オレは黙って学食をあとにした。ウマたちと別れて、帰りはどうやって帰ったのかもわからないぐらいショックを受けていた。
アヤは、もうオレをふり向かないだろう。それどころかオレの存在すら、どんなヤツなのかと思っている程度だろう。『SC』でのことは無かったも同然となった。
それにもまして衝撃的だったのはポテチだ。
――アイツはホンモノの女たらしだったのか?
本人は自分が女たらしだなどとは当然自覚もしていない。だが、他人が見れば隠しようのない事実が掃いて捨てるほどある。よくよく思い返せば、その素質があることがわかる。気安いうえに優しいし、押出しは利くし、女のコにとっては頼りになる男だ。なによりルックスがよすぎる。
せっかく積み重ねてきたと思っていたことが、すべてポテチのためにやっていたようなものになってしまった。つまり、これがオレの損な性格なのだろう。しかたがない、と思うしかなかった。そうなる運命だったと。
オレの長所はあきらめが早いところだからな…
つづく
毎週金曜日23時に更新します。
*作中の人物、団体、作品等の名称は、実在する一部を除き、特定のモデルはありません。




