第六章 九月はだれにもわからない ②
第六章①
夏休みが明けて、またいつものバイト漬けの日々が過ぎていく。ある日、ウマから構内でポテチを見たという話をきく――
あっという間に季節は巡り、年も明けた一月の半ば。
バイトから帰ってきて一息ついたのが夜の九時ころだっただろうか。冷凍室みたいな部屋で温風機を抱えて、窓からボーッと外を眺めていた。久しぶりに忙しさから解き放たれて、こんなにゆっくりしたのはいつぶりだろうかと実感していた。
こんなときには、なんとなくウマが遊びにこないかな、と思っていた。まるでテレパシーでも通じたかのごとく、オレの視界のなかにウマのクルマが目に入った。
ウチに寄る理由は想像できた。学年末試験のコピーを持ってきてくれたのだろう。オレは前期の試験同様、コピーさえあればなんとかなるだろうと甘く見ていた。
ウマは部屋に入ってくるなり、芝居がかった大げさな表情でいうのだ。
「おい、大変だぞ!」
「なんだ、試験の話じゃないのか?」
「試験が大変なんだ」
「どうした、コピーが手に入らなかったとでもいうのか?」
「持ってきたけど、これが大変なんだよ」
ウマがいうのは必修科目の『経済学原論』のことだった。この科目は、もちろん単位取得は必須なのだが、前期には試験がなかったのだ。おまけに、この必修科目は今年単位を取っておかないと四年次まで取れないのだ。
四年次に必ず取得できるという保証はない。これのせいで何人も留年したというウワサは、まことしやかに伝わっていた。ウチの大学の我が学部では都市伝説になっていた。
「それが、これだ」
ウマが持ってきたコピーを見た瞬間に気が遠くなった。A4のコピー紙いっぱいの情報量に二十枚もあるのだ。
「嘘だろ? これ覚えるの?」
ウマは得意げに広げながら、「これをそのまま書けば《A》はまちがいないってことだ。覚えなければ留年が待ってるぞ」と脅すようにいった。
「あの教授は学年末しか試験をやらないんだ。しかも追試はなし」
エルザの言葉にオレたちは顔を見合わせた。
「ホントかよ? だれがいった?」
「先輩が…」とエルザは自信なさそうに肩をすぼめる。
「じゃあ、なんとしても今回は落とせないってことか?」
ウマが、そこで余裕をかますのだ。
「いやあ、前期は試験やらないんだから、今回、落としたヤツのためにチャンスをくれるはずだよ。落としたヤツだけ追試験があるんだろ」
「だって追試はやらないんだろ?」
オレはエルザに確認した。
「単位を落とした者のためにやる救済措置が追試だ。落とさないヤツが追試を受けたらどうなる。もっと、いい成績をつけてもらうのか?」
それ以外に考えられない。そんな追試があるか?
「つまり、そんな不公平なことはやらない、という意味だそうだ」
「じゃあ、なにか? 落としたら留年が決まるのか?」
ウマは、どうやら救済措置があると信じていたらしい。
「だから… オマエはひとの話をきいてるか? オマエのことだぞ」
オレが焦燥の勢いからアゲアシをとろうとすると鼻息荒く「なにを!」と憤慨した。
「オマエがバイトで稼いでいる間にオレたちはコツコツと講義に出て、やっとこのコピーを入手したんだ。もう、オマエには試験情報を流してやらん!」
冗談ではない。ウチは留年を許さない家系なのだ。せっかく大学へいって、途中で辞めなければならないなんてポテチみたいではないか。
――落ち着け、落ち着け。
「いや、すまん、すまん。冗談だ」
ここは素直に謝っておいた方が得策だ。オレのために、こうやってわざわざ情報を持ってきてくれたのだ。よく冷えた常温コーラとポトチップスくらい喜んで出して誠意を表さないわけにはいかない。
「そんなことより問題はこれだよ」
オレたちの目のまえには漫然とコピーの束が横たわっている。まる暗記すれば済むのかもしれないが、こんなものをまる暗記するヤツがいるか?ということだ。
「だって、ほかにどんな方法があるんだよ?」
ウマは、だれしもがそう思っていることを簡単に口に出す。気持ちのどこかでコピーが手に入ったことで満足しているのではなかろうか。設問に対する解答がわかっていても、こたえられなければ意味がない。
「この試験はいつだよ?」
オレはきいた。
「最後の日の午前中じゃなかったかな。二月の終わりころだよ」とウマ。
「まだ、ひと月ある。少しずつ暗記するしかない」
オレがそういうと、ウマたちはウンザリした顔をした。
「新鮮味のないことをいうなよ。やっぱり、それじゃないか」
「コピーを持ってくれば、ユウヒのことだから、なにか斬新なアイデアを出してくれると思ったんだぞ」とエルザまでもがマジメくさっていうのだ。
「ふざけるな。そんな策があるなら、とっくにいってる」
どうりで気遣いしてくれるわけだ。オレに頼ろうと思っていたのだ。オレはコピーを捲りながら途方に暮れた。
「まる暗記は無理だっていうけど、ほかの連中はどうしてるんだろうなあ?」
「まる暗記」
ウマとエルザが口をそろえていった。
「そうだろ? まる暗記にコツでもあるのかな」
「まる暗記は、まる暗記だろうよ。そんなものにコツなんてあるか」
するとウマがいうのだ。
「講義に毎回出席して、内容を理解してるヤツは自分の言葉で解答するだろうな。まる暗記できたかどうかの試験じゃないんだから」
「オマエらは毎回出席してるんじゃないの?」
ウマとエルザは肩をすぼめながら、お互いを見合わせた。
「出席をとるときは情報が回ってくるからな。そのときは出てるよ。それはユウヒにもいってるだろ?」
「出席をとってから講義室を抜け出す」とオレはこたえた。
この科目は必修なので大きい講義室でやるのだ。こんなものを聴いているよりか、せっかく抜け出しやすい環境なのだから、退出して稼ぎにいった方がためになる。
「だからオレたちも、それ以外はほとんど出ないよな?」というウマにエルザも頷く。
「じゃあ、オレと変わりがないじゃないか。なにがコツコツ出席してた、だ」
「いや、オレたちが出席したときは最後まで聴いてるよ。だいたい、あの講義は休講が多いんだよ。カネ払ってるにもかかわらず単位もくれない」
ウマが不満をいうとエルザも乗ってくる。
「まるで嫌がらせだ。いくら理事長の息子だからってエラそうに」
「あの教授は理事長の息子なの?」
すると、ふたりは驚愕の表情でオレを見るのだ。
「知らなかったの? どれだけサボってるんだよ」
「若い教授だと思ってたら、そういうことなのか」
「一説によればだな―― 」とウマが、しかつめらしく話しだす。
「解答シートを見て、いちばん文字数が多かったヤツから順に《A》にするらしい」
「そんなバカな… 」とオレはつくり笑いをしたが、エルザは「教授会では、やりたい放題で有名だって」と、そっちの方がありえそうなことをいった。
「なんで、そんなヤツがオレたちの専攻の、しかも必修を受け持ってるんだよ。災難としかいいようがない」
しばらくオレたちは憤然としていた。
「そんなこといったってしようがない。今後のことを考えよう」
オレはそういってから、また話がもとに戻った。
「まる暗記しかないのか、ホントに?」
「まともに講義を聴いてるヤツはほとんどいないから、そうとしか思えない」とウマ。
「一言一句、これを書かなけりゃいけないのか?」
「だから、自分の言葉で書けるヤツはほとんどいないって」
オレはもう一度コピーに目を向けた。どう考えても、こんなものをまる暗記するヤツの気が知れない。
「ちょっと冷静になれよ。だいたい、まる暗記するにしてもだな、解答シートに書ききれないだろ、こんなもの。いくら字数が多いのが有利だっていったって」
するとウマはポンと手を打つのだ。
「考えてみれば、まる暗記じゃ書ききれないじゃないか」
「そういえば、そうだな」とエルザも。
オレは、ふたりの表情を見て呆れるしかなかった。
「そんなこと、すぐわかりそうなものだけどな」と皮肉を込めていってやった。
「ということはだ、まる暗記じゃダメだということだよ」
「いま、オレがそういったばかりだろ? それこそ新鮮味がない」
いまさらのように、おなじことをいうウマにトドメを刺した。
「じゃあ、どうするんだよ!」
――今度は開き直りかい。
「そこが今回の問題じゃないのか? 解答がわかっているだけに」
もう、このコピーを読み込んで要旨をまとめるしか手はない。ウマとエルザは、どうやらそれをオレにやってほしいといわんばかりなのだ。
「冗談じゃないぜ。オレは、ろくに大学にいってないくらいバイトに忙しいんだ。暇がいっぱいあるオマエらとは、ちがうんだっていっただろ」
「いや、こういうことはユウヒが得意だってエルザがいうから」とウマがいいかけると、即座にエルザがツッコんだ。
「なんてことをいうんだ。ウマがコピーはオレたちで手に入れたんだから頭脳労働はユウヒにやってもらうって…」
「オマエら、最初からそのつもりできたんだろ?」
やっとわかった。このコピーの量を見れば、いくら考える力がないウマたちだとしても、まる暗記ではダメだとわかる。
オレは速やかにコピーを三等分にわけた。そしてウマとエルザに渡しながらいった。
「きっちり三等分にはならないが、余分はオレが受け持ってやる。それぞれが、それぞれのパートを要約しよう。どうだ、名案だろう?」
彼らは眉間にシワを寄せて「しかたないな」と納得したようだった。
翌日ウチに帰ってくると、またしてもウマのクルマが停まっていた。案の定、エルザも一緒だった。
「もう、まとめたのかよ?」
「それどころじゃなくなったんだ」
オレはウマの様子を見て不吉な予感がした。いつもルーズでマイペースなヤツがこんな焦った表情をするのは、よほどのことでもないかぎり見たことがない。今夜は夕べのように芝居がかってもいなそうだ。
「いやだぜ、深刻なのは」
「これを深刻といわずして、なにが深刻なのかって」
よく見るとエルザは笑っている。
「深刻なの? なんだよ、また試験のこと?」
「これも必修なんだよ」
「これも?」
――「これも」とはなんだ? 夕べの必修科目とはちがう科目なのか?
「昨日のは『経済学原論』じゃないか」
「科目名はわからんが、なんだか需要と供給のバランスがどうしたとか書いてあったな、たしか」
「今度のは選択必修の『税政原論』なんだ」といって教本をオレに見せつける。
「そんな科目があるのか」
選択必修とは、いくつかある選択科目から選んで最低単位をとらなければならない必修講義だった。オレは履修科目にそんなのがあったことすら知らなかった。つまり、オレもそれを選択していることになる。当然教本も、たぶんいま初めて見た。
「それがどうしたんだ?」
「オマエはノンキなヤツだな。オレが教えてやらなけりゃ、試験をどうするつもりだったんだよ」
ウマのいうとおりだ。オレは常に先のことをなにも考えていない。というよりか、考えたくないというスタンスでいた。先のことを思うと窮屈で気が重くなるだけだった。ウマみたいな友だちがいなければ、たぶん試験がいつあるのかも知らなかっただろう。
なんとかなるという〝ビートルズ〟の歌みたいなポリシーで、ずっとやってきたのだ。気がつかなかったが、ポイント、ポイントで、いつもだれかに助けられているということを忘れていないか。あらためてウマには感謝しないといけないはずなのだ。
だが…
「この科目は今年落とすと、もう二度ととれないんだよ」
「落とさなけりゃ、いいんだろ?」
「そりゃ、全部の科目がそうなんだけど、万一のときには留年するしかなくなるんだ」
「来年以降の必修科目との兼ねあいか?」
「そうなんだ。三、四年次にはゼミがあるから、たとえ必修科目だろうが受講できない仕組みなんだ」
「ゼミはサボれないからなあ。落とせないのはわかったけど、単位を取るのが難しいの、これ?」
ウマの焦り方は、夕べの科目並みにこの科目も単位取得が難しそうなイメージを植えつけようとしているかに思えた。
「取れるよ、フツウならな」
「フツウってどういうことだよ? そりゃあオレはフツウじゃないよ、ろくに受講したことないんだから」
「オレたちもなんだ… 」
オレは、また気が遠くなりそうになった。ウマもエルザも、ふたりそろってこの講義に出たことがないというのだ!
「最初の二回ぐらいは出たんだけど、この講義は土曜日の二コマ目だろ? 土曜日ってこの講義しかないじゃん? かったるくてさ」
「オマエ…」といいかけたが、オレにはそんなことをいえる資格が一切ない。
ウマの話によれば、必修にもかかわらず、おなじ科目を選んでいる連中のなかでまともに受講しているヤツがいなくて情報がまったくないというのだ。
「どうするんだよ!」
「唯一の救いは問題がわかっているってことなんだ」
「出題がわかってるの? それで充分じゃないか」
ふたりは黙って頷く。
「毎年おなじ問題なんだそうだ」
「ホントかよ?」
オレはもう一度ふたりを見た。ウマもエルザも、自信なさそうに顔を見合わせる。やがてウマが突拍子もないことをいい出すのだ。
「もし、ちがう問題だったとしても、自分で問題を書き換えて解答すれば、少なくとも最低限の《C》くらいはくれるだろ」
驚いたことに、その考えはオレのポリシーに沿っていた。マイペースなくせに、なんでもキッチリとしていないと気がすまないウマの発想とは思えなかった。つまり、そこまで追い詰められているということなのだ。
「だれもわからないんじゃあ、試験受けてもなにも解答できないからな。問題すらわからないよりかは、教本に書いてありそうなことを書けば単位くれるだろ?」
「というよりか、毎年そんなことを繰り返しているだけじゃないのか? ほとんど都市伝説だろ」
「かもね。だけど修了不可の《E》よりはいいだろ? それで《C》がもらえるなら」
ウマとは思えない割切りだ。
「それで問題はどれなんだよ?」
ウマは教本を開いて「いい伝えによれば、このへんじゃないかと思うんだけど」と見せた。そこには《累進課税制度云々》と書かれていた。
「《累進課税制度》を説明すればいいの?」
それこそ教本を読み込めばいいことではないのか。
「いや、問題は《累進課税制度》じゃないんだ」
「え?」
「《累進課税説》を説明しろっていうのが問題らしいんだ」
「ちがうの?」
「《制度》と《説》じゃ、ちがうだろ?」
オレがきいただけでも、なんだかちがいそうな気がする。毅然として、おなじことだとはいえない。なんだかイヤな予感がしてきた。
「いつだよ、試験は?」
「二日目のあさイチだ」
「じゃあ、例の経済なんとかよりも、こっちが優先だな」
オレはとりあえず、その教本の目次を見た。ウマのいうとおり、たしかに《累進課税制度》というキーワードしかなかった。その章をざっと読んでみたが、《累進課税説》なんて言葉はちっとも出てこないのだ。
「この本、貸しといてくれる?」
「オレはどうするんだよ」
ウマは眉間にシワを寄せていう。
「オマエは例のコピーのまとめをやっておけ」
「ユウヒがやってくれるの?」
「どうせ、そのつもりできたんだろ? オマエらなんかに任せられるか」
「一週間でなんとかなるか? 来週からだぞ、試験」
「わからん」
「答えがわかったらオレたちにも流してくれるんだろうな? 覚えなきゃいけないから二、三日で頼むぞ」
「わかったらな」
ウマとエルザは顔を見合わせて、安堵したような笑みを浮かべるのだ。
ふたりをとっとと帰したあと、オレは明日のルート検索もソコソコに、教本の熟読に入らなければならなかった。
翌日から、ウマのおかげで意味のわからない専門用語がやたらと出てくる、挿絵もろくにない小さな字の本を読むことになった。『メガネウラスタン・クロニクル』の最初のエピソードを読んだときみたいな睡魔に襲われる。
だが読んでみるものだ。本の流れは、あいかわらずよくわからないのだが、《制度》が確立する歴史のようなところで初めてその言葉が出てきた。
これだ、これだ。これでオレの仕事は終わったようなものだ、と甘く見ていたら、とんでもない分量なのだ。これでは例のコピーのボリュームを軽く超えている。
まず、その《説》を唱えた学者が、根拠となる要素を並べるところから始まるのだ。それが形を変えながら、現在の《累進課税制度》の基礎になったという話らしいのだが、これをどこまで書くのかがポイントだった。
オレの頭のなかから、もはやアヤやポテチのことなどは霧散していた。
つづく
毎週金曜日23時に更新します。
*作中の人物、団体、作品等の名称は、実在する一部を除き、特定のモデルはありません。




