第六章 九月はだれにもわからない ①
第五章④
『夏草のいざない』の世界で時間切れになり、オレはついにポテチに成りきっていることをアヤにいえなかった。とりあえず次回没入のために予備学習をするオレ。せっかく打ち解けてきたと思ったのに――
九月になって、すぐに前期の試験が始まると、ほとんど夏休みの延長みたいなものだった。オレはバイトを続けられるので、あいかわらず大学にいっていなかった。ろくに仕事にならなかった夏の繁忙期のぶんを取り戻さなければならない。
アヤのことも、ポテチに成りきって連絡しようと思えばできたのだが、彼女が好きなものがあまりに過激なので、ちょっと怖気づいていた。あの気分が滅入る原作の世界を知ったらトラウマだった。『SC(=シンクロナイズドシネマ)』の続きの約束をしていたが、それを果たす気になれなかったのだ。
その夜、西伊豆以来にウマからチャットが入った。
《必修の試験問題のコピーが手に入ったから、これからいく》
持つべきものは友だちだ。ウマやエルザがいなければ、オレはとっくに大学をクビになっている。一般教養や選択科目などは、なんとかなる。だが、必修科目だけは必ず単位取得しなければ留年以前に現役の卒業がなくなる。
オレはそこに拘りがあったのだ。ウチのオフクロの口癖は「大学までは人並みに出してやるが、留年してまで卒業させるだけの余裕はウチにはない」といわれていた。留年が決まった時点で大学を辞めなければならなくなるのだ。
現役に拘っているのは、なにもオレだけではないだろう。ウマもエルザも、きっとそうだ。たとえ留年させて卒業する余裕があったとしても、ウチあたりの五流大学では就活にひびく。だから試験になると、みんな目の色を変えるのだ。夏休みを返上してでも補習に通うのだ。
ちょうどよかった。ウマにはバイトの給料の残りを渡していなかったし、彼としても西伊豆以来バイトを逃げてしまったことの罪滅ぼしの意味が多分にあったのだろう。
オレが八時過ぎくらいに戻ると、部屋のまえのみちにウマのクルマが停まっていた。どのくらい待っていたのだろうかと車内をのぞけば、エルザも乗っていた。
「飽きずにやってるなあ。九月になってから一回くらいは講義に出たのかよ?」
ウマが挨拶代わりにいいながら降りてきた。
「オレはオマエらとちがって生活がかかってるんだ」
「だって自宅だろ? 家賃もないし、メシもタダで食える」
「その代わり小遣いがないんだ。オマエらとちがってな」
「これを逃したら、もう親のスネを齧る機会はないぜ」
「ガキじゃあるまいし、そんなものを齧るくらいならリンゴでも齧る。ハラの足しになるし、歯にもいいんだ。オマエらとちがってな」
「齧れるときに齧っておいた方がいいぜ。将来、親のありがたみが身にしみてわかる」
ウマにはそれ以上いうのをやめた。ヘリクツをいわせれば天下一品なのだ。そばで強面のエルザが苦笑いしている。
そこでオレは不意に思い出した。引き換えにあのことを教えてやろう、もう時効のはずだ、と考えた。あのこととは、ポテチのことだった。ポテチが大学を辞めたことをまだコイツらは知らないはずだ。
「ところでポテチのことなんだけど」とオレがいいかけると、すぐにウマが手をポンと叩いて先に喋りだすのだ。
「ポテチだろ? アイツ、なんなんだよ」
「?」
「昨日、本館のまえで見かけたんだけどさ。自分のバイクに女のコを乗せてて」
「えっ… 」
オレが呆気にとられている間にエルザがきいた。
「ナカサン?」
ウマは憮然とした顔で首を振る。
「それがちがうんだよ。カラ研の女のコ、なんていったっけ? 西伊豆にもきてた… 」
「まさかカエデじゃないだろ?」
「カエデちゃんの名まえを忘れるわけがないだろ、オレが」
もっともだ。いちばんのお気に入りなのだ。具合でも悪くなければ忘れるはずがない。カエデではないカラ研の女子で、西伊豆にきていたといえば一人しかいないではないか。
オレはもう驚くとか、呆れるとか、そんな次元の心持ちではなかった。まず、ヤツが大学にきている時点で自分の記憶力を疑うところなのだが、しかもそのうえ、モテるのをいいことにアヤにまで手を出しているなんて。
「マジか!」
オレの反応にウマとエルザは眉をひそめてこっちを見るのだ。
「まだ、なにもいってないけど」
「いや、みなまでいわなくともわかる。ポテチがアヤとタンデムしてたんだろ?」
ますますウマは目をまんまるにした。
「そう、そう、アヤちゃんだ。よくわかったな」
「わからいでかっ!」
いったとたんに、ふたりはオレの顔を凝視して沈黙をまもった。しばらくしてからウマはきくのだ。
「いま、なんていった?」
「わからないわけがあるか、といったんだ。カエデ以外のカラ研のコっていえば、アヤしかいなかっただろ?」
「そうか、そうだったな。帰りはオマエと彼女が、おなじクルマだったもんな」
「それで?」
オレがウマの話をきこうとすると、あっさりと「黙って見送った」といった。
「なんで? コンニチワくらいいわなかったのかよ。子どものときに挨拶だけは、ちゃんとしろっていわれただろ」
「だから、声をかけるような雰囲気じゃなかったんだ」
するとエルザも助け船を出すのだ。
「いくら知ってる仲だからっていっても、ふたりの世界に入っていたら、ちょっと声はかけづらいよな」
オレは、ますます気になった。
「ふたりの世界に入ってたの?」
「そこまでは知らないけどさ」
ウマは首を傾げた。そうしたらエルザまでもが、ろくでもないことをいい出すのだ。
「アヤちゃんに乗り換えたんなら、ナカサン紹介してもらえよ」
ウマは「それはいい」とでもいうのかと思ったが、意外なことをいった。
「エルザは女性をなんだと思ってるんだ。モノじゃないんだぜ。クルマみたいに簡単に乗り換えれるってもんじゃないだろ」
今度はオレとエルザがウマに目を見張ることになった。
「いいこというなあ。だれに教えてもらったんだよ。いつ? どこで?」
「うるさいよ! オレのポリシーなんだ」
オレたちが茶化すようにしたので、それ以上その話は進まなかった。おかげでポテチの事情を話せなくなった。
キャンパスで見たといわれれば、もしかしたら辞めていないのかもしれないと思ってもしかたがないだろう。実は辞めていない者の話を勝手につくるのは、オレのポリシーに反していた。
少し冷静になれば、ウマが見たのはポテチではなかったかもしれない。バイクに乗っているヤツは、どこか似通った姿勢をしているものではないか。そしてタンデムしていたのは、やはりアヤに似た女性だったのではないのか。だいたいポテチほどのオトコマエがアヤみたいな地味な女を相手にするわけがない。そうだ、考えてみればわかる。
オレは自分にいいきかせて、その場は雑音を払拭することにした。ただ、やはりまったくウマのヨタ話を無視することができないので、あとでポテチにチャットしてみようと思った。
ウマたちが帰ったあと、ポテチにチャットしようと思っていたのだが、もしウマの話が事実ならば、アヤはオレをポテチと思い込んでいる可能性があることに気づいた。
そうなのだ。アヤと『SC』に入ったとき、オレはポテチに成りきっていた。どこかのタイミングで、オレはカミングアウトしなければいけなかったのだ。
あまりにストーリーに入り込んでアヤの解説に囚われすぎていたために、自分がポテチであることすら忘れていた。オレはアヤが気を許したと勘ちがいしていた。アヤが心を開いたのは、実はポテチだったのではないか。
オレはそこであらぬ空想を展開した――
つまり、くるはずのないポテチが退学の手続きかなにかの用でキャンパスにきたところ、偶然アヤと会ったのだ。ポテチは彼女と気づけば、あのあけっぴろげな性格だ、だれかとちがって必ず声をかけるだろう。ところがアヤは、ポテチに成りすましたオレと『SC』でのことがあり、かなり親しみがあったはずだ。
だとすれば、そこでポテチが戸惑うはずではないのか。だが、アヤの態度がいつもとちがってテンションが高いので、それに合わせた。そして「乗っていくかい?」か、なんかいってアヤとタンデムした、と――。
その程度のことなら「ふたりの世界」に見えるわけがないな。アヤがそんなにグイグイいくタイプでないのはわかっているが、ポテチはいくだろう。だがアイツは、ホントかどうか知らないが、実家に身重の奥さんが待っているはずなのだ。
やはり、ポテチにそのへんのことをたしかめないとイカン、と思った。ところが考えれば考えるほど、チャットできなくなるのだ。
万一、ウマの話どおりなら、きっかけは『SC』だ。そこにポテチのキャラクターを借りてダイブしたのはオレなのだ。アヤがオレをポテチだと思い込んでいても、なんの不思議もない。
ただ、ポテチは不可解なはずだ。それをオレにたしかめることはしないとしても、そもそもオレとアヤをあの場所へ呼び出したのはポテチなのだ。オレのために、アヤをなんとかしてやろうというポテチなりの気のきかせ方だったと思える。そしてポテチなら、そのときの感想をきいてきてもよさそうなものだが、あれ以来ポテチは音沙汰無しなのだ。
オレは、せっかくポテチがお膳立てしてくれたにもかかわらず、アヤといる間、ずっとポテチでいたのだ。ポテチからは、ふたりだけで会うのは場が持たないから、一時的に繋ぎとしての代役でキャラクターを借りただけなのだ。まさか、オレが最後まで成りきっていたなんて思ってもいまい。あのときオレは思っていた。オレがポテチに成りきっていたなんて、九月にはだれにもわからないはずだと。
それを考えると、おいそれとポテチにチャットできなくなった。ポテチからチャットがあったとしても、ダイブ中はポテチのキャラクターに成りきっていたとはいえない。なにか下心があって、そういうことをしたのだろうと思われるに決まっている。
アヤにチャットしてみるという手もあるのだが、ウマの話をきいてしまった以上この期におよんで、あのとき『SC』を一緒に体験したのはオレなのだ、などといえない。
アヤはどう思うか。オレとポテチに悪質なドッキリを仕掛けられたと思うかもしれない。よりによって面倒なことになったと後悔した。ポテチの姿なんか借りなければ、いまごろオレはアヤとだいぶいい関係になっていたのではないだろうか。
考えれば考えるほど、モヤモヤしてくるのだ。おかげで、その夜は試験問題のコピーなど目を通す気にもなれなかった。それどころか、翌日の配達のルートも、ろくに頭に入らなかった。
十月も半ば過ぎて試験も概ね終わり、オレはまたバイトの日々に明け暮れた。波風の立たない、いたって平穏な時間が過ぎていった。一日で一章を費やすような濃い出来事は、そう続きはしない。その間、ろくに大学にいかないせいでカエデはおろか、ウマたちにも会わなかった。同時にポテチやアヤのことなど、まったく忘れていた。
試験が終われば今度は学祭の時期になる。大学というところはホントに講義をやらない。オレが親なら、こんな無駄なことにカネを遣うのならいかせたくない。ウマやエルザみたいな裕福な家庭の「お坊さま」がいくところだ。オレのような勤労青年がいくべきではない。
だが、そのおかげでこうやってバイトに集中できるから、勤労青年でも大学を卒業できる可能性がある。そんなわけでオレは、あいかわらずバイトに浸かりたおしていた。
学生生活が通常営業に戻ったのは十一月の後半になってからだった。しかも半月もしないうちに冬休みなのだ。冬休みが明ければ学年末試験で、またろくに講義をしない。勤労青年にとっては願ったり叶ったりの学生生活だ。
大学は冬休みかもしれないが、十二月はオレにとって稼ぎ時だ。思えば夏の繁忙期はポテチとウマのおかげで、ずいぶんと助かったが収入は減った。暮れはそういうわけにはいかない。気合いを入れて繁忙期に臨もうとしていた。
なんだか夏休みが、ずっと続いているような気がしていた。しかし、もうTシャツ一枚では耐えられない。気持ちは夏休みの続きだったかもしれないが、季節はたしかに進んでいたのだ。
つづく
毎週金曜日23時に更新します。
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