207.人獣 *
目を覚ましたとき、そこに広がるのは薄汚れた空。いや、もはや空とも形容し難い、暗く冷ややかな鉄の天井。そこは、地下都市なのだから。
遅れて肌に感じたものは、ほのかな温かさ。それは冷淡な空と対比的に、体の芯を癒やしてゆく。いまだ覚えのない感覚は、治癒魔法であった。
「……私は……何を」
レティアはふと声にした。彼女の掠れた声には、男の落ち着いた声が返される。
「……案外、大丈夫そうだな。お前も、腹の子も」
その男の顔には、幾分か見覚えがあった。下の名は忘れてしまったが、確かレントといったはずだ。
覚えのある顔だったからこそ、彼女は問う。どうして男が、またこの街に戻ってきてしまったのか。
「……どうして?」
「どうもこうもあるか。ただのギルド魔導師が、仕事の為にここへ来た。それだけだ」
レティアは押し黙る。その沈黙に耐えかねてか、レントは言葉を訂正した。
「……いや違う。仕事なんかじゃない。ただの私情だ。俺が勝手に感じた恩を、勝手に返しにきた」
「……恩なんて、そんなもの私は」
「あんたはそう思うだろーな。だからもう、二度は言わない。とにかくあんたは、これからどうしたい」
そしてレティアは、その強引な問いに答えを示す。奥底に溜め込んだ感情を、涙と共に零しながら。
「……もう一度、空を見たい。いつの日か……この子と一緒に……」
無論その純朴たる願いを、レントは承る。自らが絶望の淵にいたあの日と、同じように。そしてその絶望を、彼女だけには与えぬように。
レントは立ち上がる。その決意の眼差しを感じ取ってか、二人の魔導師はリーダーたる男の方へと向き直った。
路地の最奥で血を拭うコムレスは温和に呟く。
「……決まりだね。とりあえずは、この街を出るのが先決かと。僕の傷はそこまで深くなさそうだし、後回しでいいや」
レントは続けて彼の傷の治癒にあたりたいところだが、冷静に大局を見計らってその提案に頷いた。
路地と大通りの境界線を警戒するエクアは、二人の方向へと振り返って呟く。
「まだ誰も騒ぎには気付いてなさそうだ。また面倒なのが来る前に、さっさと引き返そうぜ」
レントとコムレスは、その至極真っ当な意見に同意する。一刻を争う今、次なる行動は明白であった。
レントは召喚魔法・猩々を行使する。巨躯くを携えた二本足の獣に与えられた役目は、手負いのレティアを廃れた検問まで安静に運ぶこと。
レントはレティアを担ぎ上げ、相棒の豪腕に彼女の体躯を預ける。レティアが依然として涙を流すのは、先の宣誓の強靱さがゆえだろうか。
薄汚れた地下街から脱出する準備は、忽ちにして整った。前を向き、真っ直ぐに検問へと駆け抜ける。単純明快な作戦行動。三人の魔導師は、確かにそう描いた。
しかしながら、事態は急変する。大通りから目を逸らしてレントらのほうに向き直っていたエクアの背後には、先に討ったはずの帯刀の男。既に抜かれた刀身は寸分の気配すら露わにせず、エクアを間合いに捉えた。
レントが声を荒げようとも、その声は一刀に遅れを取る。大きく振り下ろされた太刀は、小柄の青年を無慈悲に両断した。
愛する仲間の、無惨に死に様。レントはもはや、本能的に魔法陣を展開した。行使したのは、炎魔法・放射。彼は素早い攻撃に不向きな召喚魔法を放棄し、副属性の発現魔法を選択した。
ただしかし、その情動に満ちただけの攻撃は、帯刀の男にも想像に容易い。いや厳密には、帯刀の男を操る男の想像に容易いというべきだろうか。燃え盛る一撃は、軽快な跳躍によって回避される。
そして一連の回避行動は、流れるように次なる一手へと移行した。帯刀の男の人間離れした快速な踏み込みは、強化魔法・俊敏。
迫り来る凶刃。それでもレントは、冷静さを取り戻した。いや正確に表現するなら、彼は異様な感覚から冷静にならざるを得なかった。それは目前にある人間の形をした敵が、己の従える獣と同じ匂いを放っていてから。
証拠はもはやその匂いのみ。それでもレントは確信して声を荒げる。
「コムレス……! こいつらは魔獣だ!! 何度殺しても復活する!!」
束の間、その理論は証明される。コムレスの視界に差し込んだ人影は、建造物の屋根の上に一つ。見て取れた巨躯の男は、明らかに見慣れたものだった。
刹那、その影は屋根を蹴り上げる。向かう先が己の頭上であることを、コムレスは視界に頼らずとも理解できた。
コムレスは前方に駆け出して緊急退避する。束の間に後方から響く轟音と、舞い上がる土煙。魔法の類いの攻撃ではないものの、巨漢の再来は手負いのコムレスを威圧した。
「……こりゃあ、ちとマズいか」
コムレスは巨漢へと向き直る。このとき彼のすぐ背後には、庇護すべきレティアと、彼女を抱えたままレントの命令を待つ魔獣が一匹。以降回避という選択をとることはすなわち、彼女を見殺すと同義。奥まった路地は、背水の陣へと変貌する。
鉄魔法・弾丸。咄嗟の判断で繰り出した魔法は、敵を遠ざけるための常套手段。しかし常套であるがために、その対応は決して難しいものではない。
巨漢は防御魔法陣を展開した。飛来する鉄の弾丸は相当の魔力を誇るが、男の防御魔法陣はそれへ並ぶ。矛と盾の両者が拮抗の末に砕け散ったのは、その確たる証であった。




