116.始祖の天使 ***
ツィーニアは施錠された木の扉を叩き斬る。洗脳魔導師の存在を考慮するなら、下を向いて瞼を閉じるのは必然の選択であった。彼女は視界をあえて放棄しながらも、ゆっくりと薄暗い一室へ歩みを進める。
場所はギルド・ホルトの裏通り、とある廃れたバー。ティタの証言どおり、そこには人間の活動の痕跡が色濃く残る。革命の塔の関係者が詰める場所として使われていたというのも、十分に考えられる環境下であった。古い内装の中には似通わない、整備された通信魔法具と液晶魔法具。清掃されたカウンター。地下室へ続く扉が錆び付いていないのは、その先が生活空間として活用されていたからだろう。
ツィーニアは視界に頼らずとも、最大限の警戒をしたまま慎重に歩みを続ける。そのとき小さな物音が耳に差し込むと、彼女は即座に入り口の方向へ一歩後退した。
聴覚に全てを委ねたこの状態において、聞き間違いなど起こりえない。ならば次に己の元へ訪れるのは、投擲系の暗器か、あるいは魔法弾か。暦年の経験が、彼女に最大限の警戒を訴える。
ただし現実は杞憂に終わる。彼女に届けられたものは、一寸の害も感じぬ細い声。その声は僅かな震えを帯びつつも、どこか大人びた色彩を見せた。
「……あの、どなたでしょうか?」
ツィーニアは目を閉じたままそれに応じる。
「……質問するのは私よ。あんたが洗脳魔法の使い手で間違いないのかしら?」
ツィーニアの手は既に魔法剣の柄にかかる。有事が起これば数秒足らずで敵の頸を断つ為の、極まりし臨戦態勢であった。
ただしその構えもまた、取り越し苦労に終わることとなる。不審の声は、一切の敵意無く問いへと応じた。
「……そうです。でも、実際に使徒を操るのは私じゃありません。天導師です」
「天導師……あの性悪な女なら、もう死んだわ」
「……そう、ですか。なら、使徒の権限は私に帰属しているはずですね」
それは脅しともとれる文脈ながら、悪意は感じられない。ここでツィーニアは、ようやく剣から手を離した。
洗脳魔導師の女は、依然として落ち着いた声で話す。
「私に戦意はありません。それに、こんなにも拘束されているのですから、私の命はもうあなたの手中にあるようなものです」
金属の擦れる音は、拘束具のものだろうか。それでもツィーニアは安易に目を開けず、探りを入れるように質問を続ける。
「私の髪の色は何色に見える?」
「へ?」
「質問に答えなさい」
「……分かりませんよ」
その言葉が嘘に思えなかったツィーニアは、女に目隠しがされていることを信じ瞼を開いた。そこで彼女の視界に映り込むのは、会話のとおり厳重に拘束された女性の姿。椅子に座らされた状態で両手両脚と腰までもを繋ぎ止められ、大きな目隠しを装着させられている。もはや人間の扱いとは思いがたい。
ツィーニアは再び歩み出す。彼女はその女と距離を縮めたところで立ち止まると、そこで再び会話を試みた。聞き出さなければならないことは、まだ山のように残っているのだ。
「私の弟子が、あんたの魔法で操られた魔導師と闘ってるの。あの傀儡どもを、止めることはできる?」
「傀儡というのが使徒のことを指すのであれば、それは可能です。ただ無動作魔法陣の心得が無いものですから、せめて腕の拘束具を外していただければ、ですが……」
女は鎖の巻き付いた両腕を差し出す。ツィーニアは再び剣を握ると、両腕を繋ぐ接続部だけを器用に断絶した。
両手の自由取り戻した女は何も語らず、魔法陣を展開する。その黒く禍々しき魔法陣は、国選魔導師であるツィーニアすらも一歩退かせた。
そこから僅か数秒の出来事だった。女は魔法陣を閉じたところで、再びツィーニアへ語る。
「洗脳魔法による命令を一斉解除しました。あなたのお弟子さんも、もう大丈夫です」
「……分からないわ。どうしてあんたはそんなに従順なの。あんただって、革命の塔の一員なんでしょ?」
気付けばツィーニアは、興味本位でそれを聞いていた。それでも洗脳魔導師の女は、特段の迷いなく返答する。
「私たち天使はもはや、革命の塔の一員ではありません。このとおり、ただの道具です。冷たい拘束具で自由を奪われ、人間を辞めさせられたのです」
「天使ってのは、あんたのことで合ってるのかしら?」
「はい。革命の塔において、天使とは洗脳魔導師を指します。天使は天導師と使徒の主従関係を確立する存在として、こうして各支部に配置されるのです」
ツィーニアは暫し会話を止めた。冷酷に生きてきたつもりだったが、目の前の女の虚しい声色から、同情すら覚えてしまう。
ただ同時に、その女性の心境はツィーニアにとって都合の良いものだった。ツィーニアはどこか心苦しくも、その女性の心境を利用して全ての情報を聞き出そうと試みる。
「それは謀反の意思って解釈でいいのなら、話してもらえるかしら。あんたの知っていることを全て」
女は従順に、革命の塔によって狂わされた人生を語りだす。
「――私の名はエル。革命の塔によって生み出された、最初の洗脳魔導師。いわば、始祖の天使でした」
時は十数年前に遡る。エンジ村の離れにて。
古くに村から手放されて寂れた木造の教会は、とある都市から移り住んだ老神父によって再び管理され始めた。村と教会の交流が完全に再興することはなかったが、老神父が教会の裏に佇む平屋を少しずつ修復し、そこに小さな孤児院を設立したことで、教会はささやかな賑わいを取り戻す。
幼き日のエルは、その孤児院へ移り住んだ孤児の一人であった。
「――エル、ここでの生活も慣れてきたかな?」
老神父の優しい声色に、エルは応じる。
「……はい。ここに来れて、本当によかったです」
「そうかいそうかい。それは嬉しいね」
孤児院で生活する子供は、エルを含め七人だった。一番の新参者である彼女が環境になじめていることを知ると、老神父は安寧した様子を見せる。
「あ、でも……」
そのときエルは、窓の外に映る一人の少年へ視線を向ける。老神父はそれを追うと、彼女が何を言おうとしたのか察することができた。
「……君が相手でも、やはり口を開いてくれなかったか」
老人は少し悩ましそうにしてまた呟く。
「彼のことだろう」
「……はい」
「彼は孤児院の立ち上げ当時からいる子でね。あまりに口数が少なく、身の上を何も教えてくれない。現に私が彼について知っていることは、王都・ギノバスで捨てられていた哀れな子だということだけだ」
「あの子の名前は、何ですか?」
エルの答えに、老人はまた俯く。
「……それも、私にはわからない」
「え?」
「彼が名乗らないものだから、最初は名も無き子なのだと思い、私が改めて名付けたんだ。でも彼はいくつになろうと、それに応答しない。まるで、拒否しているようだった」
あまりにも不憫でならない、少年の人生。自らも孤児でありながら慈悲深きエルは、何かに突き動かされて庭の方へと飛び出した。神父はその少女が少年との対話に挑まんとしていることを理解し、縋るような気持ちでそれを見守る。
エルは裸足で庭の雑草を踏みしめる。少年は背後から囁く草の音を気にも留めず、ただ腰を下ろしたまま、空の高いところまで伸びる雲を呆然と目にする。
その少年は、見たところエルよりもいくつか年上だった。それでも彼女は、怖じ気付かずに声をかける。
「……ねえ。聞こえる?」
少年はゆっくりとエルの方へ振り返る。どうやら耳が聞こえないわけではないらしい。
「私はね、エルっていうの。あなたは?」
やはり少年は応じない。彼は綺麗な瞳で、ただエルを観察するように見つめた。
エルはそのまま少年に近づくと、その横に腰を下ろす。
「私、あなたとお話したいな」
寄り添う優美な声。しかしながら、彼はそれに応じない。
「――ねえ、また今日も空を見てるの? 雲が好きなの?」
「――ねぇ、雨が降ってるのに、まだ外にいるの? 服が濡れちゃうよ?」
「――ねぇ、こんなに雪が降ってるのに、まだ庭に残るの? 風邪引いちゃうよ?」
少女の挑戦は幾月も続いた。そんなある日、少年は根負けしたかのごとく、ようやく口を開く。それは、エルの発した一言が契機であった。
「私ね、最近魔法のお勉強してるの。ほらっ!」
エルは掌を上にすると、そこへ小さな魔法陣を展開する。現れた赤の魔法陣から灯ったのは、小さな炎。すっかり日が落ちて暗がりになった庭が、一つばかりの温かな光へ照らされる。
「……いいね、君は魔法が使えて」
それは少年が、エルの前で初めて声を発した瞬間だった。突然の出来事に、エルは聞き返す。
「え?」
「僕は君が羨ましいよ」
そしてそこから少年は、まるで心の何かが決壊したかのように、身の上を語り始める。
「僕には魔力適性が存在しない。それ以前に、体が魔力の受容を拒否してしまう。他に症例も無いから、僕は勝手にそれを魔力拒絶症と呼んでいる」
少年は自嘲するように吐き捨てた。
「魔法が全てのこの世界で、僕はあまりに無力過ぎる。理不尽だ」
少年はエルからの慰めや励ましを期待するわけでもなく、ただそのまま彼女を差し置いて話を続ける。
「僕は弱者だ。弱者が声を上げなければ、この不条理な世界は終わらない。僕はその世界を変えるために生まれてきた。弱者の象徴として、両親も、金貨も、魔法すらも持たずに生まれた」
少年の思考は深刻な歪みを抱えていたが、事実、あまりに達観していた。エルはただ圧倒され、声を挟む隙すら見出せない。
「僕には魔法が無くとも、この狂った世界を反転させるだけの力がある。君にもいつか、証明してみせる」
少年は立ち上がる。一歩前に出て立ち尽くすその背中には、何かの意志が見て取れた。
最初はただ、物静かで内気な少年なのだと思い込んでいた。優しく接してあげることが、彼の救いになると考えていた。しかしこの日、エルの中の彼の人物像は目まぐるしく変容する。少年が吐露した言葉は抽象的で空論ながらも、本当に何かを成してしまいそうな気迫を感じた。弱い少年が、何者よりも強く見えた。
No.116 フィノン=ズニア
革命の塔所属。第一天導師に使える者。投擲での攻撃に適した分厚い手袋を装着し、黒い髪で右目を隠す。ラブリン詰所を単独で奇襲したが、王国騎士団第三師団長・ロベリアの手で討たれた。
金を発現させる金魔法と強化魔法を扱う、双魔導師。金をコイン状に形成し、強化魔法を用いてそれを投擲する攻撃を、戦闘の軸とする。




